日々雑感

元牛飼いの会社員です。時折、考えたことを書いています。

映画『Perfect Days』感想

 
先週末に夫と見てきました。

日々の暮らしの中に見つけられる小さな美しさや喜びに価値を置くところに間違いなく共感。
私も、部屋に差し込む朝日で目を覚まし、 隣で眠る夫の平和な寝顔を愛おしいと思い、 ぐっすり眠って起きた時だけ味わえる心地よさを感じる。ここまででもすでに3 good things。

そもそも、その日、 何事もなく目覚められたことだけでも1 good thing。共に暮す夫・母・犬も元気、a few more good things。鏡で見た自分の顔が今日はなんとなくスッキリしている、1 good thing。外に出てみたら、 ピリリと触れる冷たい空気が心地よい、1 good thing。

これらは、この映画に含まれる「 自分に幸せをもたらすものの強度を上げるのではなく、 自分の持つ幸せへの感度を上げる」という視点かな、と思う。一般的には「幸せになりたい」というとき、 自分の側の感度ではなく対象事物の強度の問題と捉えられがち(← 宝くじで一発当たれば幸せになれる、イケメン・ 美人と付き合いたい、等)なので、 映画でその逆のベクトルを目にできるのは嬉しい。やはり、大抵の場合、 強い幸せをもたらす事物を新たに手に入れ続けることが困難な以上 、幸せで居続けるためには、 ある程度幸せへの感度を上げることが必要と感じるので。

一方で、「ありきたりな毎日のどこに幸せを見つければいいのか? 」としか思えない場合はどうしたらいいのか。

これに対して私の持つ解は、「自分が今ここに存在できている、 という事実に慣れきらないようにする。 今ここに自分が存在できていることの不思議さを噛み締め続ける。 」といったところか。もう少し具体的な方策としては、「 自分が持っていないものではなく、 既に手にしているものに意識を向ける。それを習慣化する。 そして、もしも自分がそれを手にしていなかったなら・ 失ってしまったなら、 どのような気持ちになるかについて思い巡らし・味わってみる。」 かもしれない。
例えば、「TVやネットで見かける華々しい人々と違って、 自分は何も持っていない。何者でもない。」 と辛く思う人がいたとしても、 少なくともそういった思考をできる頭脳や身体を持っていて、 おそらくは今日食べる食べ物や今夜眠る場所もあり、 場合によっては家族や友人、いくらかの貯金まである。 そもそも自分がこの世に人間として生まれ出づることすら、誰も、 誰からもその権利を保証してもらったわけではないのに、また、 生まれ出づる機会の無かった数多の生命もあるなか、 自分は現代の平和な先進国にたまたま生まれ落ち、 太陽の下で誰からも蹂躙されることなく、 今まで生き永らえることが出来ている。これら全てについて「 何を今さら当たり前のことを。」と捉えることも出来るし、「 数々の偶然の上に成り立った、(少なくとも自分にとっての) 奇跡」と捉えることも出来るが、 後者の捉え方をしたほうが体感する幸福度はだいぶ上がるように思 う。

一方で、既に今手にしているものに満足しないからこそ、人は・ 社会は進化し続けるという側面も当然にある。私だって進歩・ 進化はしたいし、好きだ。(映画の中の平山氏は違うかもしれない。)
ただ、現代社会においては、「未だ手にしていないものを追い求める」 ことに注力しすぎ、「既に手にしているものに目を向ける・ 感謝する」ことを忘れ、遂には、 自らや大切な人々を失いそうになってから・ 或いは失ってから初めて、「手にしていたもの」 のかけがえの無さを知る、といったケースが多過ぎるように思う。

そして多分、私は断固としてそうなりたくないのだろう。
もしも、 人が最後の瞬間に自分の人生を振り返ることが出来たなら、 きっと、 ほぼ全ての瞬間をかけがえのないものと感じるのではないか 。後から振り返ってそう感じるなら、 その一つ一つを体感していっている今も、 できればかけがえの無さを感じながら生きていたい。
「Perfect Days」は、そんな自分の気持ちに、 改めて目を向けさせてくれたようです。
他にもまだ感想はあるけれど、ひとまず今日はそんなところで。

 

<映画の公式ウェブサイト>

https://www.perfectdays-movie.jp/

 

<過去に書いた、関連するテーマの投稿>

https://swandiver.hatenablog.com/entry/2017/12/03/232154

 

https://swandiver.hatenablog.com/entry/2017/12/03/231857

 

 

 

 


 

「生き延びること以外の価値を持たない世界」の持つ価値。

コロナ関係で、興味深かった萬田緑平氏のブログ。

https://note.com/ryokuhei/n/nc659d610d16d

私自身は仕事は既に数カ月間リモートワークだし、高齢者と同居しているしで、時流にも乗って絶賛引きこもり中だけど、本来の私の死生観(http://swandiver.hatenablog.com/entry/2017/09/04/225031)は、どちらかというと、本質的には萬田氏のブログで述べられている内容に親和する。(注:全内容に賛同しているわけではありません。)
要すれば、「人は遅かれ早かれ死ぬ」「人は死すべき定めにある」という事実を正面から受け止め・明らめ、その定めに身を委ねるということか。
しかし、人類は今まで、病や死を自分たちの眼前から遠ざけるために涙ぐましい努力を重ねてきたわけで、ここに来て、(無症状者からも感染するために感染抑制に莫大な社会コストのかかる)新型コロナが出現したからと言って、急に今までと正反対の方向に舵を切るのは難しいのだろう。
現代人は、過去に人類が様々な病を医学や科学を以て克服してきた自負があるため、今となっては、80代か90代以上くらいの人が老衰や癌によって亡くなった、といったケース以外の死を、いかにも不当で受け入れ難く感じるようになっている。私達は、ペストもコレラ結核エイズだって!克服してきたじゃないか、と無意識のうちに思っている。
わたしもそう。
自分自身については場合によっては諦めがつくような気もするけれど、近しい人に近づく死については、恐らく諦めがつかない。例えそれが萬田氏の述べる「死のキャリーオーバー」であったとしても、とにかく、少なくとも今回はキャリーオーバーしてほしいと願う。そして毎回、それを願うだろう。
でもこれを大局から見れば、やはりエゴかもしれないとも思う。
とりわけ、今回のように「死のキャリーオーバー」のために莫大な社会コストがかかり、そのために経済が破壊され、文化が損なわれ、未来ある子どもや若者から様々な身体的経験の機会が失われ、彼らの身体まで弱くなるとあっては。皆が一生無菌室で生きていくわけにもいかないのに。

と、今この瞬間は、そんなふうに思ってますが、どうなんでしょうね?まだ新型コロナという病について今よりも情報が少なかった春の時点では、私も今とは異なる考え方をしていたし、この先も捉え方が変わる可能性もある。

また、Withコロナの新たな生活様式に合わせていったん社会が変容したあと、それはそれできちんと世の中が回っていくのであれば、今回も多くの人の死がキャリーオーバーできて良かったね、諦めないで良かったね、というハッピーエンドに辿り着かないとも限らない。(しかしその時、生物としての人類は今よりも更にひ弱になっているのだろうけれど。)

ここ数年は、映画など虚構の世界においてすら、バッド・エンディングには耐え難くなってきているので、ましてや現実の世界においては、切にハッピーエンド、もしくは少なくともバッドエンド回避を願う。
そして、そのためには、私たちにとって一体どんな世界がハッピーで、どんな世界がバッドなのか。「生き延びること以外の価値を持たない世界」(by Giorgio Agamben)に生きることもハッピーに含まれるのか。
改めて、一人ひとりが自らの持つ価値観・死生観を見つめ直すことが求められているように思う。

「パラサイト 半地下の家族」を観て

非常に面白興味深く、怖ろしい映画でした。端的に言えば、現代の格差社会をテーマにした韓国映画。観てよかったけれど、もう一度観たくはない。こういった、格差社会をテーマにした映画がここ数年、韓日英米でそれぞれ製作され、いずれも話題作となったとのこと。日本発は当然、「万引き家族」。これらの国々に共通するのは、ジニ係数が高いこと。やはり、多くの人々が日常生活の中で、社会に存在する格差を感じ取っているからこそ、このような映画が製作され・評価されるのだろう。

この先はわたしのより個人的な見解、感想。ネタバレはなし。

今現在、どの”階層”にいるにしろ、大多数の人は、今よりも下には落ちたくないし、出来れば上に行きたい。”賢さ”と”気力”を兼ね備えた人々は、自分がより高い価値を世の中に提供できる存在となるために努力を重ねることで、この社会を生き抜いていく。そして、そのこと自体を楽しもうとして、或いは楽しんでさえいる。しかしそもそも、”賢さ”と”気力”をある程度兼ね備えた人間に育つことができるかどうか自体、実際は、与えられた遺伝子と環境という”手札”に大きく左右されている。しかし、大抵の”成功者”は、自らの”成功”は、与えられた恵まれた”手札”よりも、自らの重ねた努力によって勝ち得たと考えたがる。これは当然の帰結だろう。そもそも人はある程度の自己肯定・正当化をせずには生きていけない一方で、”他者の手札”を体感する機会は永遠に訪れないわけだから、”他者の手札”について深く思いを巡らす機会を持った、おそらくは共感力の高い人以外は、放っておけば、自らが体験・積み重ねてきた努力の方に注意が向く。結果、”成功”を得られなかった人のことを、”自己責任”として切り捨てる傾向が強まる。
そのような現実を踏まえると、この「パラサイト」のような、背景にはリアリティを保ちつつも・ストーリーに映画らしいエンタテインメント性が盛り込まれた映画が世に生み出されたことに意味を感じるし、それがパルム・ドールを受賞したことにも得心する。おそらくはこの映画を観終わった人は、どのような感想を持つにしろ、自らの住む社会について再び思いを巡らす時間を持つこととと思うし、そのことに価値があると思う。

http://www.parasite-mv.jp/

「ゴミ清掃員さんの歌〜分別分別(ブンベツフンベツ)」

バー「変幻自在」の10周年記念パーティーで初めてその歌声を耳にし、すっかり心を掴まれたのでMissatoさんのワンマンライブへ。歌詞×曲×声の魅力の相乗効果か、1曲目から涙がいつのまにかじわじわと湧いてきて不思議。「エートル(職業)ソング」という切り口では、必ずしも派手さはない職業に光を当てる、という視点も素敵。今はまだ世に広く知られてはいないのかもしれないけれど、彼女の曲・歌によって心に灯火がともる人が(わたしの他にも)たくさんいると思うので、「届くべき人に届いてほしい」と願います。


そして、今日のライブだけでなく、店内での演劇上演や様々な企画も通して“変幻自在”に、一貫した価値観を発信するバー「変幻自在」の唯一無二さ加減を改めて知り。連れてってくれた友人に感謝。まだ数回しか行けてないんだけど、また伺いたいです。

 

Missatoさんの公式ウェブサイト
https://www.missato.com/#


エートルソング「ゴミ清掃員さんの歌〜分別分別(ブンベツフンベツ)

https://youtu.be/Vk83B7tpzIU

 

「変幻自在」の経営者 湯川 史樹さんの紹介記事

https://uniques-magazine.com/2018/11/15/interview-3/

スペイン巡礼路“カミーノ”の旅

主にGWを使い、フランスからスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう巡礼路“カミーノ”のラスト114キロを6日間かけて歩いてきました。
一日およそ20キロ。
歩ききれるか?と不安でしたが、今年に入りAちゃんと数回こなした都内での予行演習の成果か、なんとか踏破することができました。

巡礼初日は気温も10度を切り、雨は降るは風は吹くはで激寒。4月も終わりだというのに、少し離れた山では雪が積もり、30人の凍えきった巡礼者たちがレスキュー隊によって助け出された、とのニュースまでありました。私も寒さで体調を崩し、喉も痛むし、翌朝には偏頭痛まで出てくる始末。
2日目朝にして早くも、「私、もしかしたら今日タクシー呼んじゃうかも。。」と士気を下げる弱気発言。(←徒歩か驢馬以外の移動手段を用いると、巡礼証明書がもらえなくなる。。。)それでも、ひとまずポンチョを被って出発。程なくして、太陽も少しばかり出てきてはまた引っ込んで、と、この日はなんとか一日天気と身体も持ちこたえてくれました。
3日目以降はさらに天候は好転。のど飴舐め、鼻をかみ、南京虫に刺されつつも、
足取りは軽くなっていきました。

詳しく語るとどんどん文章が伸びていってしまいますが、、、歩いていたスペイン北部“ガリシア地方”は、ざっくり言ってしまえば自然豊かな酪農地帯。かつての北海道での牧場生活を思い出し、懐かしさと幸福感に満たされながら歩みを進め、いつもよりも五感が鋭敏になっていくような感覚をおぼえました。
一方、歩くペースはゆっくりだったのでかなり多くの方に笑顔で「Buen Camiño!(良き巡礼を!)」の声をかけられつつ抜かされていきました^^

 

(中略)

 

終盤の5日目、6日目頃には、「あと少し!」というゴールが近づく喜びとともに「もうすぐ終わっちゃうんだ。。。」と寂しさも感じ始め。「もうこのままずっと歩いていたい。次はフランスからスタートしてピレネー越えて800キロか。」と夢見だしました。
とは言え、今回の巡礼は114キロで終着点。
ちょうど日本が平成から令和に切り替わる頃、晴天の下、サンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂にたどり着き、巡礼の証明「コンポステーラ」を押しいただきました。辿り着いた大聖堂前の広場で、沢山の仲間たちが達成感に満ちて座り込む光景を、この先忘れることはないでしょう。私たちもしばし広場に無言で座り込み、その後、遠く離れた日本にいるAちゃんへ向けた報告動画を撮影、(キリスト教徒ではないものの)自分たちなりに大聖堂で祈りを捧げました。

最後は、巡礼旅の終わりを飾るべく、「この世の果て」とも呼ばれるフィステーラ岬へ。先に寄った村、ムシアでは寒々と曇っていたのに、フィステーラでは幸運なことに太陽が姿を現し。強い風を受けながら、生まれて初めて大西洋に沈む夕日を眺めました。
きっと、人生最後に振り返ったとしても、この日は指折りの満ち足りた日。
しばらくの間、(キリスト教ではなく)カミーノ旅の布教をしてしまいそうです。

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映画「ちいさな独裁者」感想

先日観た映画。観てよかった。
ナチズムに逆らったヒーローが出てきて、自分がその時代に生きていたらあたかもそのヒーローと同じような行動を取ったであろうという錯覚と感情移入ができる映画、、、では無いです。

だから、後味が悪く、考えさせられる。

 

ごく簡単にストーリーを言うと、敗戦間近のドイツ軍脱走兵が命からがら逃げる途上、たまたまドイツ空軍大尉の軍服を発見。暖をとるためにその軍服を着るが、成り行きから大尉のふりをする。しかし次第にその演技は板につき、道中出会った兵たちは軍服とヒトラーの権威を笠に着るその脱走兵に従い、最終的には残虐行為を行うに至る、という、驚いたことに実話に基づく話。

 

監督インタビューのこれらの言葉が心に刺さる。

 

「実際はほとんどの人たちは当時、立ち上がったりせず、ただどっちつかずの形で生きただけだ。立ち上がった人の多くは亡くなったし、彼らの映画を作るのは何も悪いことではないが、人はそうしたヒーロー的人物になりたがり、倫理的な視点を持った人物と自分を重ね合わせて見る方が楽だと感じる。そんな風に安心して見られる映画など作りたくなかった。歴史はそうなってはいないのだから」

 

「もし私たちが血にまみれた歴史を忘れ、なりたい人間像に自分自身を当てはめて安らぎを得たら、非常にもろい状態になる。あやまちを防げるのは自分自身に正直な場合だけで、忘却を決して許してはいけない。奈落の底を覗き込み、どれだけ身近に起きたことなのか知る必要がある。ある意味、この映画は予防薬だ。」

 

「人間は元来、自分が何かひどいことをしても、自分の中で正当化できてしまういきものだ。それはみなが持っている資質だから、朝起きて「今日は悪事を働くぞ!」と思っている人はいない。たまたまその日悪事を働いてしまい、正当化する力を持っている。」

https://globe.asahi.com/article/12122433

鎌倉・建長寺で禅とマインドフルネスを学ぶ。

土日は、鎌倉の建長寺で、禅とマインドフルネスにフォーカスしたこのイベント↓に参加。
https://zen20.jp
知ったきっかけは、永田町GRIDでの映画上映会(https://www.facebook.com/events/1329805133823463/?ti=icl)。
為末大氏と松本紹圭氏が登壇されることを決め手に参加を決めたけれど、全体的にかなり自分の興味の方向に合致したイベントだったので2日間満喫!!
自分の興味は、と言うと例えば、過去にも書いたこういう方面↓

精神と身体の断絶
http://swandiver.hatenablog.com/entry/2017/09/04/224512
“信仰”と“信仰に似た心的態度”
http://swandiver.hatenablog.com/entry/2017/09/04/225003
不変↔︎諸行無常
http://swandiver.hatenablog.com/entry/2017/09/03/142846
“こっち側(=正常な・マトモな世界)”と“あっち側(=オウムやカルトの世界)”
http://swandiver.hatenablog.com/entry/2017/12/03/232050

今回新たに知った方のプログラムの中では特に、藤野正寛氏の「身体の声に耳を澄ます」(脳科学)がヒット。概要は以下の通り↓

◆人の自己観・価値観は「確固とし」「思い通りになること」を望む。一方、「変化し続け」「思い通りにならない」のが自然の摂理。その最たるものが、死。

自己観と自然の摂理の間のギャップに苦しみ(suffering)
が存在する。

自然の摂理を変えることができない以上、苦しみを減ずるには自己観を変えるしかない。
◆仏教の四聖諦には学びの過程が組み込まれている。
・「自分は変われる」というものの見方
・「苦は学びの機会」というものの見方
実際に、「自分は変われる」という知能観を持っている中学生のほうが、そうではない中学生よりも成績が上昇したというデータあり。

しかし、大人になっても人は変われるのか?(=神経可塑性

21世紀の研究では、大人にも神経可塑性ありと考えられている。変わるために有用なのは、
①体験的な訓練 (例)ロンドンのタクシードライバー試験
②心的訓練でも効果あり。(例)ピアノ訓練
③注意を向けること。(例)猿に音刺激か触覚刺激を与えた例

“注意を向ける”ために瞑想、マインドフルネスが有用。
瞑想:注意を集中し、評価を下さずに自分を観察することによって、自分という存在の内的基準を直接的に感じとるプロセス。
マインドフルネス:次々と生じている今この瞬間の経験に対して受容的な注意を向けてありのままに気づいていること。

“今この瞬間に生じている経験”を捉えるためには身体感覚が重要。なぜなら身体感覚は、“眼耳鼻舌身意に外部内部の刺激が接触した時”に生じるため。
つまり、意識レベルの意思決定よりも先に、無意識レベルの身体感覚が変化しているため、「身体の声に耳を澄ます」ことが大切。

藤野氏ご自身は特に「身体の声に耳を澄ます」必要があるときはヴィパッサナー瞑想に参加されるそう。以前からヴィパッサナー瞑想には興味があるので、やはり体験してみようかとも思う。

その他、2日間で印象に残った言葉達のほんの一部。(正確には覚えてないので私の解釈で。)
藤田一照氏
「正しい座相には接地性(groundness)と垂直性(uprightness)が肝要」
松本紹圭氏
「英国で参加したYoung Global Leaders研修で出会った人々は皆、『I'm not religious at all, but I appreciate spirituality』のように言う。要は誰も宗教の信者になったり入信したりはしたくないが、Wisdomを取り入れて心豊かになりたい、そういう時代。つまり、ポスト宗教時代に生きてるなぁと思う。」
現代日本の仏教は二階建構造。一階はお葬式や法事を中心とする”先祖教”、二階で仏道。しかしそもそも二階が存在しないお寺や、もしくは内階段しかついておらず二階の存在が外から分からないお寺も。二階に直接上がれる外階段も必要。」
「マインドフルネスとかに興味がある人々は、ある意味“意識が高い”ごく一部の人達。それも良いが、一方でそれ以外の、例えばおじいちゃんおばあちゃん達とかが完全に取り残される(left behind)のは望ましくない。お寺の“一階”も大切。その視点から考えると、両者を繋ぐ活動はシンプルだが“掃除”じゃ無いかと考えている。」
「それぞれ宗派によって教義が違いすぎて、”仏教”を基に寺と寺を繋げることは困難だったので、寺の"management"を切り口にネットワークを作った。」

まだまだあるけれど、文章が長くなりすぎたのでひとまずこの辺りで。
こんなに魅力的なイベントを創り上げてくださった主催者の方々に感謝します。また、このイベントを知るきっかけとなった映画上映会を主催してくださったGaiax社の木村 智浩さんにも。
来年はボランティア参加をしようか迷うところ!

#zen20