日々雑感

元牛飼いの会社員です。時折、考えたことを書いています。

「生き延びること以外の価値を持たない世界」の持つ価値。

コロナ関係で、興味深かった萬田緑平氏のブログ。

https://note.com/ryokuhei/n/nc659d610d16d

私自身は仕事は既に数カ月間リモートワークだし、高齢者と同居しているしで、時流にも乗って絶賛引きこもり中だけど、本来の私の死生観(http://swandiver.hatenablog.com/entry/2017/09/04/225031)は、どちらかというと、本質的には萬田氏のブログで述べられている内容に親和する。(注:全内容に賛同しているわけではありません。)
要すれば、「人は遅かれ早かれ死ぬ」「人は死すべき定めにある」という事実を正面から受け止め・明らめ、その定めに身を委ねるということか。
しかし、人類は今まで、病や死を自分たちの眼前から遠ざけるために涙ぐましい努力を重ねてきたわけで、ここに来て、(無症状者からも感染するために感染抑制に莫大な社会コストのかかる)新型コロナが出現したからと言って、急に今までと正反対の方向に舵を切るのは難しいのだろう。
現代人は、過去に人類が様々な病を医学や科学を以て克服してきた自負があるため、今となっては、80代か90代以上くらいの人が老衰や癌によって亡くなった、といったケース以外の死を、いかにも不当で受け入れ難く感じるようになっている。私達は、ペストもコレラ結核エイズだって!克服してきたじゃないか、と無意識のうちに思っている。
わたしもそう。
自分自身については場合によっては諦めがつくような気もするけれど、近しい人に近づく死については、恐らく諦めがつかない。例えそれが萬田氏の述べる「死のキャリーオーバー」であったとしても、とにかく、少なくとも今回はキャリーオーバーしてほしいと願う。そして毎回、それを願うだろう。
でもこれを大局から見れば、やはりエゴかもしれないとも思う。
とりわけ、今回のように「死のキャリーオーバー」のために莫大な社会コストがかかり、そのために経済が破壊され、文化が損なわれ、未来ある子どもや若者から様々な身体的経験の機会が失われ、彼らの身体まで弱くなるとあっては。皆が一生無菌室で生きていくわけにもいかないのに。

と、今この瞬間は、そんなふうに思ってますが、どうなんでしょうね?まだ新型コロナという病について今よりも情報が少なかった春の時点では、私も今とは異なる考え方をしていたし、この先も捉え方が変わる可能性もある。

また、Withコロナの新たな生活様式に合わせていったん社会が変容したあと、それはそれできちんと世の中が回っていくのであれば、今回も多くの人の死がキャリーオーバーできて良かったね、諦めないで良かったね、というハッピーエンドに辿り着かないとも限らない。(しかしその時、生物としての人類は今よりも更にひ弱になっているのだろうけれど。)

ここ数年は、映画など虚構の世界においてすら、バッド・エンディングには耐え難くなってきているので、ましてや現実の世界においては、切にハッピーエンド、もしくは少なくともバッドエンド回避を願う。
そして、そのためには、私たちにとって一体どんな世界がハッピーで、どんな世界がバッドなのか。「生き延びること以外の価値を持たない世界」(by Giorgio Agamben)に生きることもハッピーに含まれるのか。
改めて、一人ひとりが自らの持つ価値観・死生観を見つめ直すことが求められているように思う。