【Vicom2010年 06月25日投稿を転載】 不変⇔諸行無常
初期仏教経典にて主に使用されたパーリ語には名詞がないらしい。代わりに、動詞によって名詞的なものを表現する、と。(ほんとか知らないけど、本にそう書いてあった。)
わたしには、名詞なしにこの世の中が表現されることがうまく想像できない。
でも、諸行無常をとなえる仏教が動詞中心のパーリ語文化圏から生まれ出ていることに得心する。パーリ語文化圏ではそもそも、物事を「固定したもの・不変のもの」と捉える傾向が薄かったということなのだろう。
形あるものは壊れ、今そこにあるものも、刻々とその姿を変えていく。
一方、現代社会では、固定したもの・不変のものを尊ぶ傾向のほうが(たぶん)強い。
誕生日を迎えた人がよく洩らす感想のひとつに「●●歳になったからといって、私自身は別に昨日と何も変わっていない」というのがあるように思う。私も「そうだなぁ」と共感する。一方、それとは正反対の捉え方についても思い描く。
「●●歳になってもならなくても、私は日々・瞬間瞬間変化している。一瞬たりとも同じ自分ではない」
たぶん、現代人の多くにとっては、前者の捉え方のほうがより自然に思い浮かぶのではないかと思う。生まれてからずっと、さまざまな機会に刷り込まれてきた、不変・固定したものへの憧れ・欲望。
例えば。
ずっと生きていたい。(⇒不老不死)
ずっと若いままでいたい。(⇒若返り・アンチエイジング)
そのまま保存したい。(⇒冷凍保存・保存剤)
この瞬間をそのままにしたい。(⇒写真・録音・録画)
物が壊れる・劣化するのを不当に感じる(=物への執着・こだわり)
今自分が生きている場所では、これらは太古の昔から普遍的に存在する欲望であるように感じる。でも、実は必ずしもそうではないだろう。名詞がない・動詞の世界では、諸行無常はむしろ当たり前の感覚で、そこにいちいち特別な価値を見出すほうが奇妙であったのかもしれない。
私自身は、名詞が幅を利かせ・不変を追い求める時代・場所に生まれ育っているので、不変を求める心がある一方で、諸行無常的な視点に特別な価値を感じる。どちらの視点が優れているとかではないけれど、物事が瞬間・瞬間に移り変わっていることを、(頭で理解するのではなく)心の底から素朴に納得して日々過ごすとすれば、今とはまた違った心持ちで世の中や自分の人生を眺めているだろう。
と、そんなことを思ったりする。
この点に限らず、自分の視点や考え方は、常に時代・文化等などによる制約を受けた、激しく偏ったものであることを時折思い出しておきたい。