【Vicom2012年 12月15日投稿を転載】アルフォンス・デーケン氏講演会に参加して。

昨晩はお声がけいただき、アルフォンス・デーケン氏の講演会に行ってきました。デーケン氏は、死について語ることが忌避されがちな日本で、40年ほど前に死生学を提唱されたとのこと。興味深くお話を拝聴し、講演後は友人と互いの死生観などをシェアしました。
そんな晩を過ごし、改めて、自分がほんわりと抱いている死生観を確認・整理しました。

◆日本では死について語ることが忌避されがちなのは、言霊信仰の影響によるところが大きい(と思う。)
◆しかしながら、人間の死亡率は未だに100パーセント。
◆デーケン氏のおっしゃる「死を考えることは生を考えること」に共感。
◆100人いれば100様の人生(=生)があり、また100様の死がある。死が来ることさえ知らぬうちに迎える死、現世への未練に満ち満ちて迎える死、死への恐怖に怯えつつ迎える死、従容として心穏やかに迎える死、など。
◆どちらにしろ迎える死であるならば、その時が来たら、出来るならばわたしは従容として迎えたい。そして、その時はいつくるか分からない。言い方を変えれば、死が訪れた時に、それを従容として迎えられるような人生および死生観に向かっていたい。
◆思うに、現代人の多くは、自らの存在を余りに限定的に捉えすぎているのではないか。(現代人の多くにとっては)人間の脳が知覚・認知できるものが全てで、自らの存在もまた、自らが知覚・認知する存在であるという事実にのみ拠って立つと、(多くの場合無自覚のうちに)考えている。
◆しかしながら一方で、人間が“大いなる自然・宇宙(とでも言うべきもの)”の一部であり・ほんの一部でしかないことは疑いようもない事実。例え知覚は出来ていなくとも、人間はそれ以外の手段でも、“自然・宇宙”とコミュニケーションをとっている(と思う)。そうでなければ例えば、満月の夜に出産が多い、なども説明がつきづらい。(妊婦さんが「満月だから今晩産むのが適切だ」と知覚・判断するわけではないだろう。)
◆そして、自らが悠久の時の流れ・果てしなく広がる宇宙に抱かれ・繋がった、ある意味では一体の存在であると日々感じているならば、死によって自らの肉体・精神が今ある形を失うことへの恐怖もかなり和らぐのではないかと思う。もちろん、完全に平静でいられるだろうとは思わないものの、「今、知覚・認知活動を行っている自分こそがすべてである」と自らの存在を限定的に捉えている場合と比べれば、大きな違いがあるように思う。
◆以上のようなことを、わたしは自分の思想?というか机上の空論としては、かなり確固とした気持ちで抱いている。そしてこれは恐らくとくに特殊な考え方でもなく、むしろ原始的・素朴な死生観であるとも思う。
◆一方で、現代日本の都市部でごく普通に生まれ育ち・生活を送る身としては、“自分は大いなる自然・宇宙の一部で”と素朴に実感できる機会はあまり多くない。
◆そんなわけで、自分の持つ素朴な死生観を頭だけではなく感覚として感じる試みと、現代日本でごく常識的かつ充実した都市生活を送ることのることの間にある隔たりを埋めていくことが、今後の自分の人生(=生)のなかに必要だと感じる。

昨晩はこんなテーマを話し・シェア出来たことを幸せに思います。
聴いてくれて・話してくれてどうもありがとう。
この投稿をわざわざ読んでくださった方も、どうもありがとうございます。

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