日々雑感

元牛飼いの会社員です。時折、考えたことを書いています。

2回目の大阪万博

週末にかけて、暫くぶりに大阪万博へ。初回は1日だけで不完全燃焼?だったので今回は10/2(木)10/3(金)の丸2日。とは言え、7月と今回では会場の混雑度合いがまるで違う。お目当てのイタリア館は、最長8〜9時間待ちとも耳にしたため、綿密に計画を練り。

初日は東京からの移動の都合上どうしても会場到着が10時近くなってしまうため、照準は2日目の朝イチに。西ゲート入場予約は9時に取れていたものの、かなり早い順番で入場しないと簡単に数時間待ちになってしまうと知り、始発電車+(Uberで予約した)タクシーで向かうことに。まずは始発電車ですら途中から激混みで、途中駅で無理やり乗り込もうとした人に向かって車内から「乗れるわけないやろ‼️‼️」と怒鳴るおじさんの声も😅

ようやく西ゲート付近にタクシーで6時頃に到着した後は、行列のまま座って待機&2回くらい誘導に従って場所移動。しかし一回だけ、予期しない不規則移動があり、ちょうどそのタイミングでトイレのために列を離脱していた夫と離れ離れになり😢再会までに数十分。。。そんなこんなを乗り越え、ようやく9時少し前に無事万博に入場、小走りでお目当てのイタリア館へ。幸い、30〜40分待ちで入館出来ました😊(また、当日登録で日本館も予約成功。)

普段は人混みや行列を極力避けているけれど、今回は例外。甲斐あって、イタリア館の展示は素晴らしかったです。とりわけ、至近距離から見た彫刻「ファルネーゼのアトラス」(ナポリ国立考古学博物館所蔵)は非常に印象深く。久々にイタリア再訪したくなりました。満ち足りた気持ちで館外に出て、長く伸びた行列をチェックすると最後尾は既に『5時間以上待ち』の表示に。。。😮
他、2日間で以下のパビリオンを訪問しました。

<1日目>
ポーランドチェコ、オーストラリア、コモンズD(ブータンパレスチナ赤道ギニアトーゴタジキスタン等)、いのちのあかし、未来の都市

<2日目>
イタリア、Comedy Show(by 吉本興業)、日本、モザンビーク、コモンズC(モンテネグロスロベニアスロバキアウクライナイスラエル等)

閉幕を前にして会場は激混みだと聞いていたので、行く前は半ば悲観的な気持ちになっていたけれど、予想外に今回も充実した万博訪問となりました。時が経ったら、入場までの混乱や困難も含めて、全てを懐かしく思い出すことになるだろうな、とも思いつつ。


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「分断を煽らない」という選択

今回、重要な候補を見逃していました。

前回の都知事選で、知名度が十分にない中、第五位に食い込んだAIエンジニアの安野貴博氏が、今回、新党『チームみらい』を立ち上げられて、ご自身も比例代表で立候補されているんですね。政策マニフェストを読みましたが、テクノロジーを最大限に活かした建設的・画期的な内容で、他政党とは一線を画します。誰でもマニフェスト修正を提案できるようになっているのも素晴らしい。
そして、安野さんは演説でこんな事を語られていて、心を打たれました↓。

 

<抜粋ココカラ>
『私がこういうチャレンジをしようとしたときに、いろんなメディアの人、いろんな政治家の方から、あるいは政治評論家の方から言われました。

安野さん、ちゃんと票を取りたいなら、ちゃんと敵を作った方がいいよ、と。

ちゃんと分断をあおらないと、君たちみたいな新しい政党なんか出てきっこないよと。

そういうことを何人もの方から言われました。

私が言いたいのは、有権者をなめるなっていう話です。

ちゃんと私たち有権者は、しっかりと中身を見て選ぶ力があるはずです。

私たち「チームみらい」は有権者を信じてます。

だからこそ変に対立をあおったり変にポピュリズムあおったりするんじゃなくて、まっとうに政策を訴えていくと、そういう戦い方をしていきたいと思っています。』
<抜粋ココマデ>

 

不利な戦い方だと分かっていながら、分断を煽らないという選択をする。その真っ当さに、こちらも「しっかりと中身を見て選ぶ力のある有権者」でありたいと思わされました。

 

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250703/k10014852051000.html?fbclid=IwY2xjawLjNsdleHRuA2FlbQIxMQABHjZm4IbBlWt46fLRKyH4mAdFvq4xxjR8dDWDbyFIsRKDgyK9J0zvZUQutIfp_aem_eO6KeSwNGpVBI-nPz3ry4Q

エコーチェンバーについて(Chat GPTリライト版)

Chat GPTすごいなぁ。
昨日書いた投稿に数文足して、更にChat GPTにリライトしてもらったらこんな感じに↓。元の文章よりずっと分かりやすい‼️

 

<Chat GPTリライト版>

近頃改めて、「エコーチェンバー」という現象の恐ろしさを感じる。

エコーチェンバーとは、
自分と似た意見や思想を持つ人々が集まる空間(SNS掲示板など)で、同じような考えが繰り返し共有・肯定されることにより、「自分の考えは正しく、世の中一般にも通用するはずだ」と信じ込んでしまう現象である。

この空間に浸かっていると、「自分たちは真実に気づいており、その真実をまだ知らない大衆に伝えなければならない」といった“啓蒙者”のような使命感に駆られることがある。

だが、その思考回路にとらわれているときこそ、こう自問しなければならない。
「洗脳されているのは自分(たち)であり、むしろそれ以外の人々こそが冷静なのではないか?」

私自身、自分の主張にどれだけ自信があっても、どこかに思い込みや偏りがあるかもしれないという前提で、にわかには信じがたいような情報にも、なるべくファクトチェックを行うように心がけている。

また、私は常にこう思っている。
「誰がそれを言っているか(Who)」ではなく、「何が言われているか(What)」こそが重要なのだと。

この視点を省略し、「○○さんが言っているから」「△△党の情報だから」といった理由で内容を無批判に信じてしまうのは、非常に危険だ。

結局のところ、何が正しかったのかは、時が過ぎて初めて明らかになるのかもしれない。

しかし、過去を振り返れば明らかなように、ごく一部の人々ではなく、一時的にでも大多数の人々が誤った認識を「正しい」と信じ込んでしまったとき、民主主義が行われたその結果として、全体主義や独裁、戦争、自由の抑圧が生まれてきたこともある。

そして、多くの場合、そのような道のりの起点にあったのは、「自分たちは真実を知っている」と信じる人々が作り出す閉じた情報空間=エコーチェンバーだった。

だからこそ私は、どんなに自分が正しいと感じていても、「自分もまた、すでにエコーチェンバーの中にいるかもしれない」という可能性を、常に忘れずにいたいと思っている。そして、今これを読んでいるあなたが何かを「正しい」と強く信じているなら、ぜひ一度立ち止まって考えてみてほしい。
それは本当に多様な視点を経て導かれた結論だろうか?
「誰が言っているか(Who)」ではなく、「何が言われているか(What)」にしっかり耳を傾け、毎回、丁寧に吟味しているだろうか?
もしも多くの人がこの姿勢を持てたなら、私たちが誤った未来を選ぶリスクは、きっと大きく減らせると信じている。

 


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エコーチェンバーについて

近頃改めて、エコーチェンバーを恐ろしいと感じる。

 

エコーチェンバー
=自分と似た意見や思想を持った人々の集まる空間(電子掲示板やSNSなど)内でコミュニケーションが繰り返され、自分の意見や思想が肯定されることによって、それらが世の中一般においても正しく、間違いないものであると信じ込んでしまう現象

 

エコーチェンバーの中にいると、「自分たちは真実に気づいていて、真実に気づいた自分たちが、まだ真実に気づいていない大衆を啓蒙しないといけない」と使命感に駆られるのかもしれないけれど、自分がそのような思考回路を持っているときは常に、「洗脳されているのは自分(達)で、それ以外の人々は洗脳されていない。」という真逆の可能性も残っている。
私自身も、自分がいくら正しいと思っていても、「洗脳されている側」である可能性もあるから、にわかには信じがたいような主張を目にしたときも、できる限りファクトチェックを行うようにしている。

そして基本的には、『誰がそれを言っているのか(Who is saying that?)』ではなく『何が言われているのか(What is being said?)』を毎回吟味する必要があると思う。どこかの時点でこのプロセスを省略・放棄して、「◯△さん・◯✕党が言っているから(or流している情報だから)これは真実」と「信じ込んで」しまうのは本当に危険だと思う。

結局のところ、何が正しい・正しかったかは時が過ぎてから明らかになるのだろう。
しかし、「ごく一部の人」ではなく、一時的にでも「大多数の人」が誤った認識や主張を正しいと信じ込んでしまったとき、過去に起こってきたように、民主主義の結果として全体主義や独裁への扉が開かれ、戦禍へと、或いは、自由や人権が制限され、弱者や少数派が蹂躙される社会に辿り着いてしまうかもしれない。

「どんなに自分(達)が正しいと思っていたとしても、実は自分(達)が既にエコーチェンバーの中にいる」可能性を常に忘れずにおきたい。

 


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映画『関心領域』感想

(※写真は、昨年、アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館を訪れた際に撮影したものです。)

 

カンヌ国際映画祭グランプリや、アカデミー賞(国際長編映画賞・音響賞)を受賞した映画『関心領域』(The Zone of Interest)を観てきました。
一言で言うと、鑑賞後、自らの「関心領域」を問われているように感じました。

 

作中では、収容所に隣接する庭付き邸宅に住まうアウシュヴィッツ強制収容所の所長一家が描かれます。塀の向こうからは、終始、銃声や悲鳴が聞こえてきて、ユダヤ人を焼く焼却炉から煙が上がっているのに、所長ルドルフ・ヘスの妻が関心を持つのは、ようやく手に入れた美しい家と庭、そして子どもたちのこと。しかし、このヘス一家が生得的に邪悪な存在として描かれるわけではないため、(自分たちには害が及ばないことを確信している場合)人はいかに他者の苦痛を自らの関心領域の外に追いやることが出来るのか、といったより普遍的な視点を提示していると思われました。
全編に渡って、意味を掘り下げて考えたくなるようなシーンが埋め込まれていたけれど、その中でもとりわけ印象的だったのは、

 

<<この映画を見る予定の方はこの先は鑑賞後に読まれたほうがいいかもしれません>>

 

 

 

終盤に突如として現れた 現在のアウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館(の開館前の清掃)シーン。
上からの命令であるとして淡々と・粛々とユダヤ人虐殺計画を進めていくヘスも、無意識下では非常に強い罪悪感や葛藤を抱えており、それが故に夜の庁舎で嘔吐を抑えられなくなり、そして、自らの所業がいつか歴史上の大罪とされることさえも感じ取っているかのよう。
しかし、一方で、映し出される現在のアウシュヴィッツが、なぜ、朝の清掃シーンなのか、、、観ている最中には理解しきれませんでした。
ただ、後から振り返ると、直ぐ目の前に、ユダヤ人たちが殺されたガス室や彼らの大量の遺品を目にしつつも、淡々と清掃業務を進めるスタッフたち、、、これは当に、「毎日目にして慣れてしまうと『関心領域』の外に出てしまう。」ことを示しているのではないかと思い至りました。だから、すぐ隣でユダヤ人たちが焼かれていることに慣れてしまったヘス一家が、生得的に邪悪な人間であったというよりも、万人がそうなり得る、映画を観ているあなたもそうではありませんか?という問いかけなのでしょう。

実際に私たちは毎日のように、ロシアによるウクライナ爆撃や、イスラエルによるガザ地区爆撃のニュースを目にしている。
また時には、先進国の人々のために、発展途上国の人々の命や健康、生活が犠牲にされている事実等も報じられる。

もちろん、これらは家のすぐ近くで起こっている出来事では無いけれど、知識として知っていても、「(自分たちには害が及ばないことを確信しているため)他者の苦痛を関心領域の外に追いやっている」という点では、変わりはないだろう。
この映画を観て、「ああ、所長一家はなんて酷い人たちだろう。(善人の)自分とは大違い!」と溜飲を下げて観終われたら幸せかもしれないが、残念ながら、この映画はそんな風には作られていない。
「自分も結局のところ、本質的にはヘスやその妻と大して違わないのではないか」と感じ、苦しみを覚えざるを得ない。
その上で、少しずつでも自分にできることは何なのか、考え続けざるを得ない。

 

監督は、観客にそのような感情・考えを残すことを企図し、それはかなり成功していると思いました。

 

(しかし、アウシュヴィッツ強制収容所内の悲惨さ・非道さが直接的に画面に映されるシーンはないので、ホロコーストについてどれだけ前提知識を持っているか、また、どれだけ想像力を働かせられるかによって、鑑賞後の感想は大きく異なってくるかとも思いました。実際に、私達の隣席の男性は、映画序盤でいびきをかいて寝始めました。。。。)

 


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#関心領域

映画『Perfect Days』感想

 
先週末に夫と見てきました。

日々の暮らしの中に見つけられる小さな美しさや喜びに価値を置くところに間違いなく共感。
私も、部屋に差し込む朝日で目を覚まし、 隣で眠る夫の平和な寝顔を愛おしいと思い、 ぐっすり眠って起きた時だけ味わえる心地よさを感じる。ここまででもすでに3 good things。

そもそも、その日、 何事もなく目覚められたことだけでも1 good thing。共に暮す夫・母・犬も元気、a few more good things。鏡で見た自分の顔が今日はなんとなくスッキリしている、1 good thing。外に出てみたら、 ピリリと触れる冷たい空気が心地よい、1 good thing。

これらは、この映画に含まれる「 自分に幸せをもたらすものの強度を上げるのではなく、 自分の持つ幸せへの感度を上げる」という視点かな、と思う。一般的には「幸せになりたい」というとき、 自分の側の感度ではなく対象事物の強度の問題と捉えられがち(← 宝くじで一発当たれば幸せになれる、イケメン・ 美人と付き合いたい、等)なので、 映画でその逆のベクトルを目にできるのは嬉しい。やはり、大抵の場合、 強い幸せをもたらす事物を新たに手に入れ続けることが困難な以上 、幸せで居続けるためには、 ある程度幸せへの感度を上げることが必要と感じるので。

一方で、「ありきたりな毎日のどこに幸せを見つければいいのか? 」としか思えない場合はどうしたらいいのか。

これに対して私の持つ解は、「自分が今ここに存在できている、 という事実に慣れきらないようにする。 今ここに自分が存在できていることの不思議さを噛み締め続ける。 」といったところか。もう少し具体的な方策としては、「 自分が持っていないものではなく、 既に手にしているものに意識を向ける。それを習慣化する。 そして、もしも自分がそれを手にしていなかったなら・ 失ってしまったなら、 どのような気持ちになるかについて思い巡らし・味わってみる。」 かもしれない。
例えば、「TVやネットで見かける華々しい人々と違って、 自分は何も持っていない。何者でもない。」 と辛く思う人がいたとしても、 少なくともそういった思考をできる頭脳や身体を持っていて、 おそらくは今日食べる食べ物や今夜眠る場所もあり、 場合によっては家族や友人、いくらかの貯金まである。 そもそも自分がこの世に人間として生まれ出づることすら、誰も、 誰からもその権利を保証してもらったわけではないのに、また、 生まれ出づる機会の無かった数多の生命もあるなか、 自分は現代の平和な先進国にたまたま人間として生まれ落ち、 太陽の下で誰からも蹂躙されることなく、 今まで生き永らえることが出来ている。これら全てについて「 何を今さら当たり前のことを。」と捉えることも出来るし、「 数々の偶然の上に成り立った、(少なくとも自分にとっての) 奇跡」と捉えることも出来るが、 後者の捉え方をしたほうが体感する幸福度はだいぶ上がるように思 う。

一方で、既に今手にしているものに満足しないからこそ、人は・ 社会は進化し続けるという側面も当然にある。私だって進歩・ 進化はしたいし、好きだ。(映画の中の平山氏は違うかもしれない。)
ただ、現代社会においては、「未だ手にしていないものを追い求める」 ことに注力しすぎ、「既に手にしているものに目を向ける・ 感謝する」ことを忘れ、遂には、 自らや大切な人々を失いそうになってから・ 或いは失ってから初めて、「手にしていたもの」 のかけがえの無さを知る、といったケースが多過ぎるように思う。

そして多分、私は断固としてそうなりたくないのだろう。
もしも、 人が最後の瞬間に自分の人生を振り返ることが出来たなら、 きっと、 ほぼ全ての瞬間をかけがえのないものと感じるのではないか 。後から振り返ってそう感じるなら、 その一つ一つを体感していっている今も、 できればかけがえの無さを感じながら生きていたい。
「Perfect Days」は、そんな自分の気持ちに、 改めて目を向けさせてくれたようです。
他にもまだ感想はあるけれど、ひとまず今日はそんなところで。

 

<映画の公式ウェブサイト>

https://www.perfectdays-movie.jp/

 

<過去に書いた、関連するテーマの投稿>

https://swandiver.hatenablog.com/entry/2017/12/03/232154

 

https://swandiver.hatenablog.com/entry/2017/12/03/231857

 

 

 

 


 

「生き延びること以外の価値を持たない世界」の持つ価値。

コロナ関係で、興味深かった萬田緑平氏のブログ。

https://note.com/ryokuhei/n/nc659d610d16d

私自身は仕事は既に数カ月間リモートワークだし、高齢者と同居しているしで、時流にも乗って絶賛引きこもり中だけど、本来の私の死生観(http://swandiver.hatenablog.com/entry/2017/09/04/225031)は、どちらかというと、本質的には萬田氏のブログで述べられている内容に親和する。(注:全内容に賛同しているわけではありません。)
要すれば、「人は遅かれ早かれ死ぬ」「人は死すべき定めにある」という事実を正面から受け止め・明らめ、その定めに身を委ねるということか。
しかし、人類は今まで、病や死を自分たちの眼前から遠ざけるために涙ぐましい努力を重ねてきたわけで、ここに来て、(無症状者からも感染するために感染抑制に莫大な社会コストのかかる)新型コロナが出現したからと言って、急に今までと正反対の方向に舵を切るのは難しいのだろう。
現代人は、過去に人類が様々な病を医学や科学を以て克服してきた自負があるため、今となっては、80代か90代以上くらいの人が老衰や癌によって亡くなった、といったケース以外の死を、いかにも不当で受け入れ難く感じるようになっている。私達は、ペストもコレラ結核エイズだって!克服してきたじゃないか、と無意識のうちに思っている。
わたしもそう。
自分自身については場合によっては諦めがつくような気もするけれど、近しい人に近づく死については、恐らく諦めがつかない。例えそれが萬田氏の述べる「死のキャリーオーバー」であったとしても、とにかく、少なくとも今回はキャリーオーバーしてほしいと願う。そして毎回、それを願うだろう。
でもこれを大局から見れば、やはりエゴかもしれないとも思う。
とりわけ、今回のように「死のキャリーオーバー」のために莫大な社会コストがかかり、そのために経済が破壊され、文化が損なわれ、未来ある子どもや若者から様々な身体的経験の機会が失われ、彼らの身体まで弱くなるとあっては。皆が一生無菌室で生きていくわけにもいかないのに。

と、今この瞬間は、そんなふうに思ってますが、どうなんでしょうね?まだ新型コロナという病について今よりも情報が少なかった春の時点では、私も今とは異なる考え方をしていたし、この先も捉え方が変わる可能性もある。

また、Withコロナの新たな生活様式に合わせていったん社会が変容したあと、それはそれできちんと世の中が回っていくのであれば、今回も多くの人の死がキャリーオーバーできて良かったね、諦めないで良かったね、というハッピーエンドに辿り着かないとも限らない。(しかしその時、生物としての人類は今よりも更にひ弱になっているのだろうけれど。)

ここ数年は、映画など虚構の世界においてすら、バッド・エンディングには耐え難くなってきているので、ましてや現実の世界においては、切にハッピーエンド、もしくは少なくともバッドエンド回避を願う。
そして、そのためには、私たちにとって一体どんな世界がハッピーで、どんな世界がバッドなのか。「生き延びること以外の価値を持たない世界」(by Giorgio Agamben)に生きることもハッピーに含まれるのか。
改めて、一人ひとりが自らの持つ価値観・死生観を見つめ直すことが求められているように思う。