日々雑感

元牛飼いの会社員です。時折、考えたことを書いています。

【FB2014年11月2日投稿を転載】『現地報告会 ~ガザに生きる人々』に参加

先日は、ジャーナリスト 藤原 亮司氏の『現地報告会 ~ガザに生きる人々』に参加。そこで得た学びについて一部、記しておきます。(長文です><)

藤原氏は、1998年からパレスチナ問題の取材を開始。今年も、イスラエルによる攻撃が行われた8月、数週間、ガザにて取材を敢行されたとのこと。会場では現地の生々しい映像を交えつつ、藤原氏の視点を拝聴。中でも特に印象に残った部分を、私の理解した限りでまとめ直すと。

パレスチナ人にとっての真の苦しみは恐らく、「家や街を壊される」といった直接的なものではない。

今回も、イスラエルの攻撃によって2000人を超えるパレスチナ人が死亡。それはもちろん悲劇。過去にも、家や街が丸ごと破壊されるなどしてきた。そして、家を失った人々の、避難所や屋外での生活も悲惨。しかし、破壊しつくされたはずの町を2~3年後に訪れると、見事な新興住宅地に蘇っていたりする。これは国連等の援助によるもの。援助があるため、飢えることもない。携帯電話やパソコンも持っていたりする。小学~高校までの教育は無料。大学進学率も高い。
一方で、国境がほぼ封鎖されているため、産業は壊滅状態。失業率は80%。大学進学率が高いのも、人々が他にすることがないから。
することのない大人の男たちは、昼間から集まって水煙草を吸い、トランプに興じる。援助によって生活している大人たちは、子供たちに「将来立派になるために、ちゃんと~しなさい」等と諭すこともできない。誰も、将来に夢を見ることが出来ない。
ある時藤原氏が10歳の少女にうっかり「将来は何になりたい?」と訊いてしまったらその子は、「朝、目が覚めて、『あ、生きてるな。』と思ったら、その日一日何をしようか考える。将来のことは考えられない。」と答えたと。

前述のように、「イスラエルが攻撃する→国連等がパレスチナに向けた援助をする」というサイクルが出来てしまっている。本来は攻撃をしたイスラエルが賠償をするべきであるのに。
そのため、ガザ地区等はある意味、イスラエルにとって打出の小槌のような存在でもある。

その証拠の一つとして、イスラエルは今回のガザ攻撃の際も、取材許可証を敢えて、諸外国のジャーナリストに発行している。つまり、ガザ地区の被害が世界で報道されてもいい、寧ろ報道してほしい、ということ。
報道されれば、必要とされる復興に関してはまた、世界からの援助で賄われるから。』

他にも、今回の攻撃に関し今までと大きく異なる点として、「敵の姿が見えない戦い」と。直接イスラエル軍が侵攻してくるのではなく、予め攻撃ポイントと定めた場所に、ピンポイント爆撃が行われる。
また、ガザ地区のあらゆる場所に無人偵察機(ドローン)が飛んでおり、常時微かに「ブーン」という音が聞こえている。無人偵察機が不審なもの・人を発見すると、その場所もピンポイント爆撃される。
よって、パレスチナ人はイスラエル兵を見かけないし、イスラエル兵もパレスチナ人を直には目にしない。(ただ、いくらピンポイント爆撃が成功しても、爆撃された建物の破片等は周囲に飛散するので、当然、標的とは無関係の被害者も多数出る。)

この「イスラエル人もパレスチナ人を見かけたことがないし、パレスチナ人もイスラエル人を見かけない。」という状況は、第二次インティファーダ以降、イスラエルパレスチナ自治区の間に分離壁が張り巡らされてから生まれた。これによりどうしてもお互い、「相手も血の通った人間だ」という感覚が薄れていっている。

等々。

いろいろお話しいただいたのでうまくまとめきれませんが><、改めて、パレスチナ問題の根深さを思い知らされる晩となりました。。。

セミナー感想:「分身ロボット」がつなぐ未来〜人工知能にはできない「孤独の解消」を目指す〜

ワクワクしてじわりと響く講演会に参加しました↓。自分の囚われている価値観についても洗い直してみたくなるような。
ご自身がデザインした「黒い白衣」をなびかせてふわりと壇上に現れ、自己紹介しながらあっという間に折り紙で薔薇(?)を折りあげた吉藤オリィさんの存在感は、すでにその時点から聴衆のワクワク感をいやが上にも煽っていたけれど、そのあと“分身ロボット”について語られる姿からは、身体も弱く不登校が長かった彼の苦しみの深さがそのまま情熱に転化したようなエネルギーの放射を感じました。
 
“分身ロボット(OriHime)”とは。
◇例えば、長期入院中の子どもがOriHimeを、学校の自分の席や家族のいる自宅に置く。子どもは家や学校の様子を知ることができ、かつ、子ども自身の遠隔操作によりOriHimeが動く・喋るので、家族や学友もその子の“存在”を感じることができる。(注:本人の映像をスマホ画面などで映し出すことももちろん可能だが、入院中の人は必ずしも自分のリアルタイムの姿を相手に見せたくないことが多いとのこと。)
◇例えば、会社の受付としてOriHimeを置く。これを操作するのは、遠隔地にいる寝たきりの障がい者。OriHimeを操作することで、例え本人の身体に重い障がいがあっても会社の受付として働き、賃金を得ることが出来る。
 
吉藤さん曰く、彼がやっているのは“存在感伝達事業”で、“遠隔地においてどうやって存在感を発揮させるかがテーマ”、と。
 
“存在感の伝達“という視点がEye-openingでワクワク。
 
ご自身も不登校や引きこもりの経験がある吉藤さんは当初、お年寄りや入院中の子どもの抱える孤独感を癒やすため、“ロボットセラピー””癒やしロボット”を研究していたとのこと。しかし、やればやるほど、「本当の意味で人を癒やすことが出来るの人間だけ」「人は人の役に立つことによって自らの存在意義を感じる」との思いを強め、AIではなく分身ロボット、そして“存在感の伝達”にたどり着いたと。
 
思考の流れにとても共感。
いくらAIが温かみのある完璧な受け答えをしたとしても、利用者が「相手は人間でなく機械だ」と認識している限り、孤独は“紛らわされる”だけで“解消”はされず、それどころか、「自分は誰の役にも立たない人間だから、機械に相手してもらうしか無いんだ」と孤独が深まるように思う。
今後、テクノロジーのさらなる進化により、大勢としては人と人の接し合う局面は減っていくと思うけれど、「(人ではなく)AIの役に立つことによって自らの存在意義を感じる」ように人間が変化するわけもなく、結局、どこまでいっても「人間が互いに関わり合うことによって互いの存在意義を感じあう(=幸せを与え合う)」必要性は残る。
 
そう考えると、テクノロジーによって“存在感を伝達”し、人と人が繋がることをサポートする“分身ロボット”の方向性はやはり素晴らしいと思う。
更に、 自分が以前に考えていた“身体と精神の二項対立”についての考え方↓を修正する必要も感じたり。
いろいろ書いたけど、ひとまずエキサイティング、Food for Thoughtな2時間を過ごせてシアワセでした。OriHimeも使ってみたいなぁ。
声をかけてもらって感謝!

【Vicom2012年 12月15日投稿を転載】アルフォンス・デーケン氏講演会に参加して。

昨晩はお声がけいただき、アルフォンス・デーケン氏の講演会に行ってきました。デーケン氏は、死について語ることが忌避されがちな日本で、40年ほど前に死生学を提唱されたとのこと。興味深くお話を拝聴し、講演後は友人と互いの死生観などをシェアしました。
そんな晩を過ごし、改めて、自分がほんわりと抱いている死生観を確認・整理しました。

◆日本では死について語ることが忌避されがちなのは、言霊信仰の影響によるところが大きい(と思う。)
◆しかしながら、人間の死亡率は未だに100パーセント。
◆デーケン氏のおっしゃる「死を考えることは生を考えること」に共感。
◆100人いれば100様の人生(=生)があり、また100様の死がある。死が来ることさえ知らぬうちに迎える死、現世への未練に満ち満ちて迎える死、死への恐怖に怯えつつ迎える死、従容として心穏やかに迎える死、など。
◆どちらにしろ迎える死であるならば、その時が来たら、出来るならばわたしは従容として迎えたい。そして、その時はいつくるか分からない。言い方を変えれば、死が訪れた時に、それを従容として迎えられるような人生および死生観に向かっていたい。
◆思うに、現代人の多くは、自らの存在を余りに限定的に捉えすぎているのではないか。(現代人の多くにとっては)人間の脳が知覚・認知できるものが全てで、自らの存在もまた、自らが知覚・認知する存在であるという事実にのみ拠って立つと、(多くの場合無自覚のうちに)考えている。
◆しかしながら一方で、人間が“大いなる自然・宇宙(とでも言うべきもの)”の一部であり・ほんの一部でしかないことは疑いようもない事実。例え知覚は出来ていなくとも、人間はそれ以外の手段でも、“自然・宇宙”とコミュニケーションをとっている(と思う)。そうでなければ例えば、満月の夜に出産が多い、なども説明がつきづらい。(妊婦さんが「満月だから今晩産むのが適切だ」と知覚・判断するわけではないだろう。)
◆そして、自らが悠久の時の流れ・果てしなく広がる宇宙に抱かれ・繋がった、ある意味では一体の存在であると日々感じているならば、死によって自らの肉体・精神が今ある形を失うことへの恐怖もかなり和らぐのではないかと思う。もちろん、完全に平静でいられるだろうとは思わないものの、「今、知覚・認知活動を行っている自分こそがすべてである」と自らの存在を限定的に捉えている場合と比べれば、大きな違いがあるように思う。
◆以上のようなことを、わたしは自分の思想?というか机上の空論としては、かなり確固とした気持ちで抱いている。そしてこれは恐らくとくに特殊な考え方でもなく、むしろ原始的・素朴な死生観であるとも思う。
◆一方で、現代日本の都市部でごく普通に生まれ育ち・生活を送る身としては、“自分は大いなる自然・宇宙の一部で”と素朴に実感できる機会はあまり多くない。
◆そんなわけで、自分の持つ素朴な死生観を頭だけではなく感覚として感じる試みと、現代日本でごく常識的かつ充実した都市生活を送ることのることの間にある隔たりを埋めていくことが、今後の自分の人生(=生)のなかに必要だと感じる。

昨晩はこんなテーマを話し・シェア出来たことを幸せに思います。
聴いてくれて・話してくれてどうもありがとう。
この投稿をわざわざ読んでくださった方も、どうもありがとうございます。

http://www.academyhills.com/school/collabo/visionary12121...

【Vicom2011年 08月29日投稿を転載】“信仰”と“信仰に似た心的態度”

先日、友人と宗教や信仰に関連した話をしていた。
語らっているうちに、私の頭のなかですこし整理がついたことがあって、嬉しかったのでここに記しておきたい。
(→この日記は私の記録のためではあるけれど、いちおう明らかにしておくと、私は特定の宗教を信仰しておらず、宗教団体にも所属していません。)

現代日本において、知識や教養としてではなく・信仰の対象として宗教に関心を持つ・或いは関心を持っていると見做されることから生じる社交上の不利益は小さくないと思う。例えば、積極的に宗教に関わる人が、「あの人は宗教を“やってる”」と表現されるなど、控え目に言っても“特定の宗教を信仰すること”は“一般的ではない”と認識されることが多い。(→ごく伝統的と見なされる仏教神道等を除く。)

そして、一般的な日本人がなぜ宗教をそれほどまでに警戒するのかと言えば、“宗教→新興宗教新宗教)→カルト・盲目的・強引な勧誘・何か売りつけられる?→キケン”といったようなイメージの流れがあるからだろう。わたしも、ごく普通に日本で育ったので、皮膚感覚としてこのイメージの流れを知っている。
でも、「じゃあ、宗教に関わっていればキケンで、宗教に関わっていなければ安全なのか」と問われれば、個人的には必ずしもそうは思わない。

というのも、信仰の対象こそ“宗教”ではないものの、特定の考え方等に対して、人々が信仰に近い心的態度を持っているように感じる機会は珍しくないので。

例えば。

私は、去年からコーチングのコースを1年以上にわたり受講してきた。クラスはグループで行われ、クラス内でも頻繁に模擬的なコーチング・セッションが行われたり、また、受講者の積極的な意見表明が求められる場面も多い。そしてこの“受講者の意見”を耳にする中で、私はしばしば、受講者の間で、“コーチング”という手法に対して、時に“信仰”に近い気持ちが育っているように感じる。

つまり受講者は、コーチングを学ぶことを決めた時点では明らかに、「自らの判断でコーチングを(高く)評価し、自ら主体的にコーチングを学ぶことを決めた」のだと思うけれど、学んでいるうちにいつの間にか関係性が逆転し「それがコーチングであるから、高く評価する」「それがコーチングであるから、間違っているはずは無い」「それがコーチングであるから、信じる」といった心的態度へ変化しているように感じられる(ことがしばしばある)。

そして、この時の受講者のコーチングに対する心的態度からはおそらく無意識のうちに中立性が失われおり、“コーチングは正しい”を前提とした、ある意味では“信仰”に非常に近い心の状態が生まれているように思う。

(→ここで“コーチング”を出したのは、単に私にとって身近であるからで、とくに“コーチング”だから、“信仰に近い心の状態が生まれている”と思っているわけでは全くありません。あくまでもコーチングは、例。)

もちろん、“信仰”や“信ずる心”にも当然プラスの面があるし、“信仰に似ている=悪い”とも決めつけたいわけではない。
しかし、“宗教”と名のつくものに対しては常に警戒態勢を緩めず・自らの身から遠ざけようとするのが常である多くの日本人が、“宗教”と名のつかないものに対しては、精神的に今なお非常に無防備で、いとも容易くその対象に対して“信仰”に似た心的態度をとるようになる、ということには、少し不思議な気持ちと危機感を覚える。

結局、日本で“宗教”が危険視される一番大きな理由は、それが人に思考を停止させ・理性を失わせると思われているからだろう。とすると、本当に警戒すべきは“宗教”(=客体)ではなく、考え続けることの荷の重さから、時に思考停止して自分以外の誰か・何かにその荷を預けたくなる自分の心(=主体)なのだと思う。
そして、その“自分以外の誰か・何か”は、人によって・時によって・状況によって“世間”だったり“会社”だったり“社会”だったり、“感銘を受けた思想・本・人”だったり、“宗教”だったりする。

個人的には、それが何であろうとも、出来る限り“信仰的な心的態度”には陥りたくないなぁと思う。“誰がそれを言っているか”ではなく、“何がそこで言われているのか”を、いつも一瞬一瞬、可能な限りニュートラルに近い状態の頭と心で受け止めていけたらいいなぁと思う。
(もちろん、「一瞬一瞬」と言うのは現実には不可能に近いし、そもそも「ニュートラルって何?」ということにもなるけれど><)

というのが、私の個人的な、物事全般に対する姿勢かな。


ただもう一方で。


“信ずることのリスク”をとても強く感じるからこそ、(私のなかで)“信ずることの価値”が否が応にも高まる、という面もある。
だから逆説的に、長い人生の中では、リスクは承知で時には“信じぬく”ことも必要かもしれない、とも思う。(→ただしそれは私の場合は主に、組織や集団や思想に対してではなくて、個人(友、家族、パートナー等)に対して発揮されるものだと思うけれど。)

と、そんなことを考えた。

【Vicom2011年 02月03日投稿を転載】『さあ、(再度)才能に目覚めよう!』

先日、コーチングの授業で「強み」にフォーカスしたのを機に、数年前に読んだ「さあ、才能に目覚めよう!」を再読しています。
それが、かなり本の中身を忘れていて愕然。
まるで初めて読んでるみたいな新鮮さで読み進めつつあります。

わたし、これ、ほんとに読んだのかなぁ。。

でも、strength finderまでちゃんと終わらせたみたいだし。。(⇒ログインしてみたら、ちゃんと結果が出ているので。)
ちなみに結果は、

・戦略性
・内省
・最上志向
・収集心
・成長促進

だったみたい。
結果も覚えてないんじゃ、ぜんぜん才能に目覚めてない。
ちゃんと今も変わらないものなのか、も一回やってみたいけど、それは出来ないみたい。となると、確実に才能に目覚めるためにはもう1冊買わなきゃいけないのかぁ。迷う。

【Vicom2011年 02月02日投稿を転載】 映画『ソーシャルネットワーク』鑑賞。

先日、話題の映画『ソーシャル・ネットワーク』を観てきました。かなりフィクションの要素が強いみたいだけど、一応、Facebook創設にまつわるお話。(↓直接的にはそんなにネタばれしてないと思います。長いので気が向いたら読んでください。。)

ハーバード大生のマーク・ザッカーバーグは、斬新な発想・確かな技術等から、自身の創設したソーシャルネットワーキングサイト、Facebookを大成功させる。
一方彼は、共同創設者や創設に関係した人々から訴訟を起こされる。
映画は、成功とその陰にある人間ドラマを2時間濃縮で描く。
テンポよく進むストーリーに、倍速じゃないかと思うほど早口な台詞。ちょっと頭は疲れるけど、まったく退屈しない。
でも、台詞とストーリーを追うのに集中していたら、「そろそろ終わりかな」と予感する間もなくエンディングに連れて行かれ、あっけないくらい。

見ている最中はあんまり余裕が無かったので、後から振り返ってみた。

私はいつの間にかこの映画を“強みを生かす”⇔“弱みを克服する”という視点から見てたみたい。
というのも、コーチングのクラスでちょうど“強みを生かす”という内容を扱っているところだったので。

つまり、Facebook成功は彼の強み(=発想力、技術力等)を強化した結果であり、訴訟等につながる部分は弱み(=おもに、対人能力の欠如)を克服しなかった結果、という捉え方で。

ストーリー中に見る限り、マーク・ザッカーバーグのコミュニケーションには相当問題がある。
相手の視点に立って考える、という手間を殆どかけないし、多くの局面で“私は正しい、あなたは間違っている(I'm OK, you're not OK.)”の立ち位置から会話を進めるので、周囲との摩擦や誤解が絶えない。根っこの部分はとくに悪人でもないのだけれど、近くにいたら感情面で無駄にダメージを与えられそうで、正直なところ、あんまり近くにいてほしいタイプとは言えない。(映画の中でも“友人は少ない”というふうに描かれている。)

なので、直感的な感想としては「その発想力と技術力で大活躍する前に、もう少し人間関係構築(および、そのためのスキル)に心を配ってもいいのでは?」と思ってしまう。
つまり、「強みの強化をする前に、弱みを克服しては?」と。

でも、この感想はおそらく、自分が育ってきた過程において「強みの強化」よりも「弱みの克服」が重視されていたためだろうなぁ、とも思う。

しかし、時代の流れとしては「弱みを克服した規格品」よりも「強みを強化した規格外品」への評価が上がってきている。
(ただもちろん、弱みに関しても“放置”するわけではなく、最低限のダメージコントロール、といった視点は残っていると思うけれど。)

例えば、マーク・ザッカーバーグが自分の発想力や技術力を伸ばすことに注力するよりも、「ぼくは友達を上手く作れない。。」と悩み、「人に好かれるには」みたいなことをひたすら勉強していたとしたら、Facebookは生まれなかったか・生まれるのがずっと遅れただろう。しかし現実にはマークは、対人能力の欠如はひとまず置いておいて、自分の強みを強化した。だからこそFacebookが生まれ、人々は彼に拍手喝采した。

というわけで、ごく大ざっぱに言って、これは必ずしも悪いことでもなさそうだ。

ただその一方、「隣にいる人は(も)たぶん規格品」という前提に基づいた安心感が成り立たなくなるわけだから、社会全体としての調和や一体感は弱まるだろうし、それゆえ、人々が互いに互いの“いびつさ”を許容していくことも、より重要になるのだろうと思う。
(ただ、マークややっぱりもう少し、人間関係に気を使ったほうが良かったとは思っちゃうけれど。)

以上、かなり偏った視点での映画鑑賞となりました。(でも、勉強になった。)
明日は出来たら午後休をとってオーケストラ!を観に行きたいなぁ。。

【Vicom2010年 12月10日を転載】保険としてのinclusive。

さきの日記で何気なく、
「誰か・何かをexcludeしていればしているほど、いつか自分がその誰か・何かの要素を持った時、自分自身をもexcludeせざるをえず・自己否定に向かわざるを得なくなるようにも思うし。」
と書いたけれど、書いてから自分でこの文章が気になりだした。

この考え方って、ちょっと“保険”みたい。

わたしの心・価値観の中では、「出来る限り人をexcludeしない」ということが大きな位置を占めているように思うけれど、これは一つには「人をexcludeする価値観」が長期的・将来的には自分自身をも排除し・傷つけるリスクを察知しているからなのだろう。

(例えば、私が老いを排除する価値観を抱いていたとしたら、自分が老いた時は無意識のうちに自分自身をexclude・否定せざるを得ず、非常に辛い思いをするだろう。
また例えば、私が何らかの病を持った人を排除する価値観を持っていたとしたら、もし自分がその病にかかったとしたら、その場合も間違いなく、自己否定に向かわざるを得ず・苦しむだろう。
逆に、老いにも病にも寛大な価値観をもともと持っていたとしたら、自分が老いたとしても・病になったとしても、(他人からの排除はともかく)少なくとも自己否定の苦しみは味あわなくて済む。)

そういう風に考えると、「出来るだけ人をexcludeしない」というスタンスで生きていくことはある意味、「自分がexcludeされかねない要素を抱えてしまったときに備え、予め保険の掛け金を払っている」という見方もできなくない。

もちろん、そんな保険のようなことしか考えていないわけではないけれど。
例えば、「あなたはこれから死ぬまで、人に排除されるような要素を抱えてしまうことはありません。あなたはこれからずっと強者です。」と神様か誰かにお墨付きをもらったとしても、今となっては、「あ、わたしは安全地帯にいるんだ。じゃあ、遠慮なく人を排除しよう」とは思わないし。(⇒でも、生まれた時から自分をずっと強者だと感じて生きてきたとしたら、自分がそうならなかったとも限らない。)

ただ、いずれにしても“人を排除しない(=苦しめない)”と“自分で自分を排除したくない(=苦しみたくない)”がわたしのなかで色濃く結びついていることは否定できないように思う。

でも、この“保険”に関しては、掛け金を熱心に払う人々と一切払わない人々など、普及率には大きな差があるみたい。もちろん、掛け金を払っている人にしても・払っていない人にしても、“保険”なんていう考え方はしていないと思うけれど。

でも、掛け金を一切払っていない人たちが、「他者を排除しない価値観・生き方をすること」が「将来の自分を守ることにもつながる」と上手く納得したとしたら、動機はともあれ、結果としてはよりinclusiveで・弾力のある社会に近づくかもしれない。