日々雑感

元牛飼いの会社員です。時折、考えたことを書いています。

【Vicom2010年 12月10日を転載】"gender identity"and "sexual orientation"

こういう内容は誤解を呼びやすくて、あっさり誤解されると興味本位で語られるので、それは本意ではないけれど、個人的には真面目に考えて・考えをまとめておきたい。
というのは、人種や文化、障がいなどと同様に、(無意識のうちにでも)多数派が少数派を深刻に苦しめている可能性が高い領域だと思うし、それを抜きにして単に自分という存在を考える上でもやっぱり、gender identityやsexual orientationというのは大切なことで、自分なりの捉え方・考え方を(自分の中で)明確にしておきたいから。
最近ひさしぶりに、こういった話に触れる機会があったので、ちょうどいいから、現在に至る自分の考えの流れを文章にしておこう。

まず、この領域に私が初めて興味・関心を持つようになったのは大学の頃。

授業で触れられた"Compulsory heterosexuality and lesbian existence"(Adrienne Rich)という論文にびっくりした。”異性愛が社会によって強制されている”とは、極端ではあるけれど、ある意味目からウロコというか。

確かに、例えば「ゲイだけれど、(それを明らかにして生きていくには社会的な風当たりが強いから)女性と結婚する」という話は聞いたことがあった。
それに、もしも自分がストレートでなかったとしても、それを日本の社会生活の中で自然にカムアウトして生きていくのはとても難しいと思う。(→可能とは思うけれど、それをすることによって被るであろう精神的ストレスや社会的・経済的不利益等を考慮するとかなりリスクが高い。)
というわけで、確かにかなりの程度で異性愛が強制されていることに疑いはない。そしてそのことによって当然「異性愛が当たり前」という非常に強いメッセージが社会から発信されているわけで、その中で生まれ育っていく子どもたちは、異性愛へと“誘導”もされている。 

と考えると、自分も今まで生まれ育ってきた中で、異性愛に“誘導”されてきたから異性愛社会に適応した、という面もあるんだろうか?と当時、興味を抱くようになった。

例えば全く逆に、社会が同性愛を前提として出来あがっていたとしたら。
同性としか結婚できないとか、同性ではなく異性と付き合うと回りにびっくりされるとか。
もしそういう社会で生まれ育ったなら、もしかして自分の中に今とは全く逆のsexual orientationが形成された可能性はあるんだろうか?

そんな風に疑問に思って、「だったら、同性愛が当たり前の場所にちょっと身を置いてみよう」と思って、当時フィールドワーク的に、ストレートではない人たちが集まる場所にしばらく関わってみた。(⇒その頃初めて、"gender identity(性自認)"と"sexual orientation(性指向。嗜好ではなく。)"の区別も明確に理解した。)

結論から言うと。
幸か不幸か?私の場合、gender identityやsexual orientationに関する自己認識が完全にひっくり返されるようなことはなかった。その一方、もしも生まれたときから“強制的同性愛”の社会で育ったとしたら、それなりにその社会に何とか適応した可能性もなくはないかなぁ、と。

一人の人間の中には大抵の場合、(gender identityに関して言えば)男性性も女性性も両方あるし、(sexual orientationに関して言えば)異性愛的傾向もあれば同性愛的傾向もある。ただその人が「男性」「女性」或いは「異性愛」「同性愛」と区分されるのは、「どちら寄りか」ということをグラデーションのどこかでスパッと切り分けただけ。 
そして、その線をどこで・どのように引くのか、どこからどこを“異端”と見做すのか、についてはその時・その場所の社会の在りようによって全然変わってくる。
そういう結論に至った。 

この結論は、わたしの中ではすごくしっくりきて、気にいっている。
この考え方なら、たぶん、誰のことも傷つけない(と思う)。例えばもしも自分がストレートじゃないとある日突然気づいたとしても、自分も傷つかない(と思う)。

誰か・何かをexcludeしていればしているほど、いつか自分がその誰か・何かの要素を持った時、自分自身をもexcludeせざるをえず・自己否定に向かわざるを得なくなるようにも思うし。

そして、このグラデーションの考え方は明らかに過去に書いた日記の内容(http://sns.vitaljapan.com/?m=pc&a=page_fh_diary&t...http://sns.vitaljapan.com/?m=pc&a=page_fh_diary&t...)にも重なっている。↑これらの日記のほうの内容は、大学生の時には明確に意識したことはなかったけれど。
自分の中にある薄ぼんやりしたものの輪郭がちょっとずつ明らかになってくるにつれ、色んなことが繋がってみえてくるのかも。色んな人や本や経験の力を借りて、もっと色んな“薄ぼんやり”が明らかになって、もっと色んなことが頭や心の中で繋がっていくといいな。

【Vicom2010年 11月28日投稿を転載】K田さんの日記を読んで思ったこと。

先日のK田さんの日記(http://sns.vitaljapan.com/?m=pc&a=page_fh_diary&t...)を見て、以前も日記に登場させてしまった歌人穂村弘さんの別のエッセイを思い出した。

それは「子ども時代の絶体絶命感」について書かれたもの。

簡単に言うと、「子ども時代の絶体絶命感は、大人になってからのそれと比較にならないほど圧倒的なものだ」という話し。
「絶体絶命感」て何のことかと言えば、その言葉の通り「ああ、もうどうにもならない。この世の終わりだ。」と追いつめられた心理状態。

例えば、翌日のテストがもうどうにもならないほど恐ろしくて、「学校なんて燃えちゃえばいいのに」と思う。
ぼくんちには部屋が10コもあるんだよ!」みたいな他愛ない(?)嘘をついてしまって、「じゃあほんとかどうか見せてみろ!」と言われてクラスメイ
トと連れだって、3LDKの家に向かう帰り道。
クロールが出来ないのに、水泳大会に自由型で出場しなくてはならず、一人だけ平泳ぎで泳ぐ羽目になったとき。

それら子ども時代の絶体絶命感は、大人になってからのそれとは比較にならない、と。

大人になってからももちろん、何かに非常に追い込まれることはあるんだけれども、でもどこかで「これはいつ(か)終わる。その先がある」とか「ここ以外の場所もある」ということが分かっている、と。

これはすごく分かる。
わたしも、今でも覚えている「子ども時代の絶体絶命感」がいくつかある。
今となっては他愛なくても、あの時感じた追いつめられ感は圧倒的だったと思う。だからこそ、今でも覚えているんだと思うし。

そして、「いじめ」は上で挙げたような例とも較べものにならないような絶体絶命感を生みだすだろう。子どもたちは「これはいつ(か)終わる。その先がある」「ここ以外の場所もある」ということを信じられるほどの年月を生きていないし、経験をしていない。

と考えると、いじめが無くならない以上は「先がある」「他の場所もある」ということを子どもたちに示してあげることが大切なのかな、と思う。(例えば、河田さんが社会人バンドについて語られているように。)

理不尽ないじめに対して「その場で踏ん張る」にしても「退却して他の場所を探す」にしても、「先」や「他の場所」の存在を信じられなくては絶体絶命感から抜け出ることは難しい。

ついでに言えば、私も大人になってから感じる幸せの一つとして、「自分の居場所を自分で選べるようになったこと」も大きいなぁと思う。

とくに周囲との人間関係で極度に辛い思いをしたことはないのだけれど、それでも、学校という均質的で閉じた空間・集団の中にある程度適応して生きていくために使ったエネルギーはわりと大きかったように思う。

学校って、もともとは過酷な大人社会から子どもたちを守る目的もあって設けられているはずだけれど、子どものタイプによっては学校のが危険になってしまっているのかも。

今のところ教育現場にも関わっていないし、自分の子どももいないから、この問題に関してすぐに自分が出来ることって思いつかないんだけれど、そんな風に思う。

 

【Vicom2010年 10月18日投稿を転載】「あきらめる」

わたしは「諦める」という言葉が好き。と言えば、?と思われそう。

でも、自分の心のうちを覗いてみて、心の在り方の大きな部分を表わす言葉として辿りつき・すごくしっくりくるのがこの言葉だった。
ただもちろん、必ずしも現代一般的に使われるネガティブな意味での捉え方ではなくて、自分なりのプラスの意味をこの言葉の解釈に加えていた。
そしたらあるとき、「諦める」の語源は仏教にあり、その意味に「つまびらかにする」「明らかにする」という、私の捉え方と近いものが含まれることを知った。
あまりにしっくりくるので、もしかしたら過去のどこかの時点で「諦める」の仏教的語源がすでに私の頭の中に入っていたのかもしれないけれど。(というか、たぶんそう。)

いずれにしろ、仏教の考え方でも・わたしにとっても「諦める」は決してネガティブな言葉ではない。
漢語の「諦」はサンスクリット語satyaの訳語で、真理・道理を意味するのだという。
そこから、「物事の真理を明らかにする→自らの希望・目標等が達成されないことが明らかとなる→断念する」といった解釈の流れが生まれ、現代はその最後の「断念する」の部分だけが残ってしまったのだろう。
しかし、もともとの意味やわたしの印象では、「諦める」の力点はどちらかというと、「明らかにする」「つまびらかにする」というところにあり、それにさらに付け加えるとすれば「(現代語での)諦める」ではなくて「受け容れる」という意味合いだろうか。

物事をあるがままに見つめ(ようと試み)、それを事実として受け容れる。シンとした静かな心持ち。

それが、わたしにとっての「諦める」という言葉のイメージ。そしてその解釈に基づき、じぶんの中にいつの間にか根づいているキーワードの一つが「自分が自分であることを諦める」。これは強いて言えば、「自分が自分であることを受け容れる」に近いか。

と、そんなことを考える一方で、(自分も含め)現代人は「自分が自分であることを諦める」ということをとても苦手としているように思う。「諦めない」ことが美しいとされ、「諦める」ことは良くないことだと思いこんでしまう。
それゆえ、「諦める」ことには、必ず痛みや敗北感が伴うこととなる。
しかし、必ずしも「今そこにないもの」を求め続けることが正しく、「今そこにあるもの」を受け容れることが誤っていて・敗北であるとは限らないと思う。

ときには、「つまびらかにし、受け容れる」ことで心穏やかになり、今まで目に入っていなかったものが見えてくることもあるんじゃないか。
上手く言えないのだけれど、そんな風に思う。

もちろん、「諦めない(=give upしない)」ことを否定するつもりは全然なくて、多くの局面で「諦めない」ことは美しいし・価値がある。
でも同時に、「諦めない」ことに価値を置き過ぎるあまり、「つまびらかにし、受け容れる」ほうの価値が見過ごされがちな気もする。

【Vicom2010年 09月14日投稿を転載】映画「インセプション」を観て。

しばらく前に映画「inception」を観た。
もう一回観に行ってから文章にしようと思っていたんだけれど、なかなか2回目を観に行けないから、とりあえず書いとこう。

この映画、評判通りにすごく面白かった。

私の印象としては、マトリックス(やアバター)に通ずるものがある。
どこが通ずるか文字にしてみると、

●「身体と精神は分離可能」という前提に立っていて、
●「現実と非現実の境界に関する不確かさがある」

というところかな。
後者に関しては、「映画を見ているうちにどのシーンが現実か分からなくなる」という直接的な話ではなくて、「非現実のリアルさが現実のリアルさに限りなく肉薄したとき、非現実と現実に区別をつける意味は?」みたいな疑問が映画の中に含まれている、という意味で。

それにしても、こういうマトリックス的視点の映画がすっかりお馴染みになってきた。もちろんそれよりもっと前にもSF映画などで同系統のものはあったと思うけれど、「身体と精神は分離可能」「現実と非現実の境界の不確かさ」という視点や感覚が、ここまで世間一般的にすんなりと受け容れられるようになったのは、インターネットが普及したからなんだろうなぁ。

ネットに親しんだ人たちにとって、「仮想世界の中で自由に羽ばたく精神」と「ディスプレイの前に取り残された身体」というのは、無意識のうちに峻別されて、結果として、「身体⇔精神」を二項対立的に捉える傾向が強まる(たぶん)。
逆に、全身に汗をかきながら畑仕事をしている人が「ああ、早く汗を流してビールを飲みたい」と思っているとき、「自分の精神と身体は分離可能だ」、とはあんまり思いつかないと思うし。

というわけで、インターネットの普及によって人々は身体と精神の境界を、無意識のうちに、より深い境目として捉えるようになってきている(はず)。

で、それがいいことなのか悪いことなのか?正しいことなのか間違ったことなのか?というと、わたしにはよく分からない。

けれど、(たぶん)仏教的なわたしからすると、やっぱり身体⇔精神についても二項対立はしっくりこないし、不自然な感じがする。そして、そういう相対する概念に関して私がもつお気に入りの捉え方は「グラデーション」だから、「身体⇔精神」についてもそう捉えたくなる。

というのが私の今考える・思うこと。でも、もうちょっとちゃんと考えを深めたいから、何か関連する本を読んでみよう。あとは、インセプションも公開が終わるまでにやっぱりもう一回観に行きたい。

【Vicom2010年 09月04日投稿を転載】エッセイを読んで、脈絡なく。

穂村弘さん(歌人・エッセイスト)のエッセイを読んでいたら、小さな頃に「右」と「左」の概念を理解するのに時間を要した、というようなことが書いてあった。「東」や「西」だったらまだ分かる。常に決まった方向が「東」や「西」だから。でも、「右」は、自分が動くと「右」も動く。一体「右」ってなんなんだ、と思った、というようなこと。
私は、自分が「右」「左」をどのような過程を経て理解したのか覚えていないけれど、似た経験を思い出した。

私の場合は、「天然」と「人工」をうまく理解できなかった。
「天然の塩」か何かをスーパーで売っていて、「天然ってなに?」と母に訊き、説明してもらった。
じゃあ、「天然じゃない塩は何なの?」と訊くと、「人工。人間が作ったもの」みたいな答えだった。
でも私は腑に落ちなくて、当時は上手く説明出来なかったけれど、要は、「人間が作った、と言っても無から作りだしたわけじゃないし、もともとは自然界にあるものから作り出されているのに、どこで『天然・自然』と『人工』が分かれるのか」がうまく理解できなかった。
もちろん、その後だんだんと、世間一般的なところの「天然・自然」と「人工」の境目は学習した。でも、今でもあの時にうまく理解できなかった違和感は記憶の中に強く残っている。

でも、穂村氏も書いていたけれど、こういうのは大人になると気にならなくなっていく。穂村氏も今はちゃんと「右」と「左」は分かるし、と。

それは便利なことだし、人が社会的に生きていくうえで必要なことと思う。
その一方、単に便宜上に定められただけのものを永久不変の真理であるかのようにいつの間にか考えてしまって、「右」「左」「天然」「人工」という言葉ではうまく拾えない部分を取りこぼしていることに気づかなくなってしまっているんじゃないか、という気もする。

例えば、「天然」「人工」という言葉を単独で取りだすときは、あくまで概念として存在する。
でも、「この●●は天然」というように言葉が具体性を帯びた時は、本当は「●●=天然」というわけではなく「●●は天然の性質を帯びている・天然寄りだ」というほうが近いように思う。
なんていうか、「天然」という言葉の範囲に入ればとりあえずはそう呼ぶけれど、必ずしも●●が天然という言葉の持つ意味のど真ん中にはいないだろう、というか。
でも、日常生活で用いる言葉ではそんなまだるっこしい言い方も考え方もしないから、世の中のあらゆる事物・事象などは、言葉によって切り分けられていく。ど真ん中にはないものでも、とりあえず・便宜上は、どこかに押し込められる。そうしないと、曖昧な領域が増えて、社会が上手く進んでいかないから。

でも、この「名づける」「分類する」ということによって「そのものの正体がわかった・明らかになった」ように思ってしまい、そのことが逆に、現実の事物・事象をありのまま・あるがままに見ることを妨げることにもつながっていると思う。卑近な例でいえば、「あの人は●●な人だ」と自分の中で決めつけてしまうことによって、今その瞬間自分の目の前にいるその人ではなくて「●●」という言葉でそのひとを限定的に捉えてしまったり。

と思うと、あらゆる事物・事象などについて考えるときは、できるだけ、「●●は××だ」のように厳然たる未来永劫変わらない真実であるかのように捉えるのではなくて、もっと緩やかで・様々な可能性を含むグレーゾーンを受け容れる余裕をもった捉え方をしたいと思う。
という考え方は、たぶんとても個人的で、必ずしも賛同を得られないと思うけれど、そう思う。

そして、この考え方と言うのはやっぱり、曖昧さや余韻や、言葉によって言いつくされないものに価値を置く、日本的な発想の流れにあるのだろうか、と思う。


と、ここまで考えてまた別のことを思い出した。
昨日の、林さんに受けたコーチングの中で私が気づいたこと。

私は、よく推奨される“測定可能な”目標の設定が苦手で、“(どちらかというと)測定困難な”目標設定に向かいがちだ。
もちろん、内容によっては明らかに測定可能な目標設定が可能で・適している場合も多々あるけれど、近頃はそれが行きすぎて、すべての領域で測定可能なほうが偉いというか、とにかく測定可能>測定不可能、という価値観が固定されすぎているようにも思う。

言葉によって適切に表現されづらい部分にも心を配りたいと思っている私としては、言葉だけではなく“測定”というものによっても、物事がさらに限定的にしか捉えられなくなっていくような気がして、測定万能主義のさらなる台頭に、何となく怯えてしまう。

【Vicom2010年 09月03日投稿を転載】コーチング・セッションを受けて。

今日は、初めて正式にコーチング・セッションを受けました。
今まで、授業関連等で類似の経験はあったけれど、60分間きちんと受けたのは初めて。コーチはVitalにもいらっしゃっている林健太郎さん。

感想としては。

プロのコーチが行うコーチングってどういうものかを、俯瞰的に理解したい、という気持ちはあったのだけれど、クライアントとして問いかけを受けていると、答えるのに夢中になって・全然俯瞰的になんて見られず。
なので、コーチングの勉強の一環として、というよりも、純粋にコーチングを受けた感じになりました。

やっぱり面白かったし、刺激になったし、楽しかった。

林さんときちんとお話しするのも今回がほぼ初めてくらいだったけれど、1時間のセッションを通して、新たに気づいたことがいくつもあって。
すごいなぁと思うのは、
●言語メッセージと非言語メッセージを双方をきちんと見られていて、そこに生じているズレ等を明確に言語化される点や、
●クライアントにとってマイナスに響きそうなことも率直に言葉にされることによってマイナスに響かせず、逆にクライアント(=私)に考えるきっかけを与えている点、
●「何でそこでその質問が?」という、一瞬クライアント(=私)には意図がよく分からない問いかけがありつつも、それに対してとりあえず考えていくとじつはクライアントのこだわっている部分につながっていったりする、

とかかなぁ。
俯瞰的に見れてない私には、セッションがどこまで戦略的に進められているのか個々の部分では判断がつかないのだけれど、結果から言うと、正しい場所にたどり着いた感じがするから、戦略的なのだろうなぁと思う。

今日気づいた点に関しては、そこを足がかりに自分でも考えを深めてみて、今後に生かしていきたい。そして、気づきを引き出してくれた林さんに深く感謝。

【Vicom2010年 08月25日投稿を転載】コーチング・セッションを始めて。

最近、コーチング・セッションを社外のVital友・知人に受けてもらうことを始めた。
先週は、まず2人。
手探り状態のスタートだったけれど、幸い、二人とも「頭の中が整理できた」「やるべきことが明確になった」などとプラスの感触を持ってくれて、ひよっ子コーチ(=私)には嬉しい第一歩だった。
そして、スキル的な部分の不足や不安を除いた私の素朴な感想は、一言。

コーチングって楽しい!!!」

何だそりゃ?って思われるかもしれないけれど、ほんとにそう。
なんでかと考えてみると。

コーチング・セッションでは仕事やプライベート等での目標を扱うから、クライアントにとって大切・切実な問題を話題にする。つまり、そもそもクライアント役を引き受けてくれる、ということは、クライアントが、私という人間を自分にとって切実な問題を話す相手としてある程度認めてくれている、ということ。
●実際、セッションの中では、通常の世間話では突っ込んで話さないような・むしろぼかして済ますような、物事の核心にも触れる。
●そして、セッションの中で私が問いかけを繰り出したことによって、クライアントが何かに気づいたり・前進した瞬間を目にすることが出来る。

という辺りかなぁ。要は、「相手の心に近づいて」「相手にプラスの影響を与えることが出来る」という点が、自分自身の心に喜びを与えてくれるんだろうなぁ。「人のためになることが、自分のためにもなる」って一番うれしい。そして、その嬉しいことを行う手段として、「コーチング」というスタイルは自分にとても適している気がする。詳しく書くにはまだ私の頭の中でいろいろなことが上手くまとまっていないけれど。

でも、コーチングを仕事的な領域で生かせるかどうかは全然分からないけれど、わたしにとって、全人生的に生かせることには確信が持ててきた。

引き続き地道に学び・実践し・スキルを身につけて、「人のためになって・自分のためにもなる」時間をより確実に作り出せるようになりたいなぁ。