日々雑感

元牛飼いの会社員です。時折、考えたことを書いています。

【Vicom2011年 08月29日投稿を転載】“信仰”と“信仰に似た心的態度”

先日、友人と宗教や信仰に関連した話をしていた。
語らっているうちに、私の頭のなかですこし整理がついたことがあって、嬉しかったのでここに記しておきたい。
(→この日記は私の記録のためではあるけれど、いちおう明らかにしておくと、私は特定の宗教を信仰しておらず、宗教団体にも所属していません。)

現代日本において、知識や教養としてではなく・信仰の対象として宗教に関心を持つ・或いは関心を持っていると見做されることから生じる社交上の不利益は小さくないと思う。例えば、積極的に宗教に関わる人が、「あの人は宗教を“やってる”」と表現されるなど、控え目に言っても“特定の宗教を信仰すること”は“一般的ではない”と認識されることが多い。(→ごく伝統的と見なされる仏教神道等を除く。)

そして、一般的な日本人がなぜ宗教をそれほどまでに警戒するのかと言えば、“宗教→新興宗教新宗教)→カルト・盲目的・強引な勧誘・何か売りつけられる?→キケン”といったようなイメージの流れがあるからだろう。わたしも、ごく普通に日本で育ったので、皮膚感覚としてこのイメージの流れを知っている。
でも、「じゃあ、宗教に関わっていればキケンで、宗教に関わっていなければ安全なのか」と問われれば、個人的には必ずしもそうは思わない。

というのも、信仰の対象こそ“宗教”ではないものの、特定の考え方等に対して、人々が信仰に近い心的態度を持っているように感じる機会は珍しくないので。

例えば。

私は、去年からコーチングのコースを1年以上にわたり受講してきた。クラスはグループで行われ、クラス内でも頻繁に模擬的なコーチング・セッションが行われたり、また、受講者の積極的な意見表明が求められる場面も多い。そしてこの“受講者の意見”を耳にする中で、私はしばしば、受講者の間で、“コーチング”という手法に対して、時に“信仰”に近い気持ちが育っているように感じる。

つまり受講者は、コーチングを学ぶことを決めた時点では明らかに、「自らの判断でコーチングを(高く)評価し、自ら主体的にコーチングを学ぶことを決めた」のだと思うけれど、学んでいるうちにいつの間にか関係性が逆転し「それがコーチングであるから、高く評価する」「それがコーチングであるから、間違っているはずは無い」「それがコーチングであるから、信じる」といった心的態度へ変化しているように感じられる(ことがしばしばある)。

そして、この時の受講者のコーチングに対する心的態度からはおそらく無意識のうちに中立性が失われおり、“コーチングは正しい”を前提とした、ある意味では“信仰”に非常に近い心の状態が生まれているように思う。

(→ここで“コーチング”を出したのは、単に私にとって身近であるからで、とくに“コーチング”だから、“信仰に近い心の状態が生まれている”と思っているわけでは全くありません。あくまでもコーチングは、例。)

もちろん、“信仰”や“信ずる心”にも当然プラスの面があるし、“信仰に似ている=悪い”とも決めつけたいわけではない。
しかし、“宗教”と名のつくものに対しては常に警戒態勢を緩めず・自らの身から遠ざけようとするのが常である多くの日本人が、“宗教”と名のつかないものに対しては、精神的に今なお非常に無防備で、いとも容易くその対象に対して“信仰”に似た心的態度をとるようになる、ということには、少し不思議な気持ちと危機感を覚える。

結局、日本で“宗教”が危険視される一番大きな理由は、それが人に思考を停止させ・理性を失わせると思われているからだろう。とすると、本当に警戒すべきは“宗教”(=客体)ではなく、考え続けることの荷の重さから、時に思考停止して自分以外の誰か・何かにその荷を預けたくなる自分の心(=主体)なのだと思う。
そして、その“自分以外の誰か・何か”は、人によって・時によって・状況によって“世間”だったり“会社”だったり“社会”だったり、“感銘を受けた思想・本・人”だったり、“宗教”だったりする。

個人的には、それが何であろうとも、出来る限り“信仰的な心的態度”には陥りたくないなぁと思う。“誰がそれを言っているか”ではなく、“何がそこで言われているのか”を、いつも一瞬一瞬、可能な限りニュートラルに近い状態の頭と心で受け止めていけたらいいなぁと思う。
(もちろん、「一瞬一瞬」と言うのは現実には不可能に近いし、そもそも「ニュートラルって何?」ということにもなるけれど><)

というのが、私の個人的な、物事全般に対する姿勢かな。


ただもう一方で。


“信ずることのリスク”をとても強く感じるからこそ、(私のなかで)“信ずることの価値”が否が応にも高まる、という面もある。
だから逆説的に、長い人生の中では、リスクは承知で時には“信じぬく”ことも必要かもしれない、とも思う。(→ただしそれは私の場合は主に、組織や集団や思想に対してではなくて、個人(友、家族、パートナー等)に対して発揮されるものだと思うけれど。)

と、そんなことを考えた。

【Vicom2011年 02月03日投稿を転載】『さあ、(再度)才能に目覚めよう!』

先日、コーチングの授業で「強み」にフォーカスしたのを機に、数年前に読んだ「さあ、才能に目覚めよう!」を再読しています。
それが、かなり本の中身を忘れていて愕然。
まるで初めて読んでるみたいな新鮮さで読み進めつつあります。

わたし、これ、ほんとに読んだのかなぁ。。

でも、strength finderまでちゃんと終わらせたみたいだし。。(⇒ログインしてみたら、ちゃんと結果が出ているので。)
ちなみに結果は、

・戦略性
・内省
・最上志向
・収集心
・成長促進

だったみたい。
結果も覚えてないんじゃ、ぜんぜん才能に目覚めてない。
ちゃんと今も変わらないものなのか、も一回やってみたいけど、それは出来ないみたい。となると、確実に才能に目覚めるためにはもう1冊買わなきゃいけないのかぁ。迷う。

【Vicom2011年 02月02日投稿を転載】 映画『ソーシャルネットワーク』鑑賞。

先日、話題の映画『ソーシャル・ネットワーク』を観てきました。かなりフィクションの要素が強いみたいだけど、一応、Facebook創設にまつわるお話。(↓直接的にはそんなにネタばれしてないと思います。長いので気が向いたら読んでください。。)

ハーバード大生のマーク・ザッカーバーグは、斬新な発想・確かな技術等から、自身の創設したソーシャルネットワーキングサイト、Facebookを大成功させる。
一方彼は、共同創設者や創設に関係した人々から訴訟を起こされる。
映画は、成功とその陰にある人間ドラマを2時間濃縮で描く。
テンポよく進むストーリーに、倍速じゃないかと思うほど早口な台詞。ちょっと頭は疲れるけど、まったく退屈しない。
でも、台詞とストーリーを追うのに集中していたら、「そろそろ終わりかな」と予感する間もなくエンディングに連れて行かれ、あっけないくらい。

見ている最中はあんまり余裕が無かったので、後から振り返ってみた。

私はいつの間にかこの映画を“強みを生かす”⇔“弱みを克服する”という視点から見てたみたい。
というのも、コーチングのクラスでちょうど“強みを生かす”という内容を扱っているところだったので。

つまり、Facebook成功は彼の強み(=発想力、技術力等)を強化した結果であり、訴訟等につながる部分は弱み(=おもに、対人能力の欠如)を克服しなかった結果、という捉え方で。

ストーリー中に見る限り、マーク・ザッカーバーグのコミュニケーションには相当問題がある。
相手の視点に立って考える、という手間を殆どかけないし、多くの局面で“私は正しい、あなたは間違っている(I'm OK, you're not OK.)”の立ち位置から会話を進めるので、周囲との摩擦や誤解が絶えない。根っこの部分はとくに悪人でもないのだけれど、近くにいたら感情面で無駄にダメージを与えられそうで、正直なところ、あんまり近くにいてほしいタイプとは言えない。(映画の中でも“友人は少ない”というふうに描かれている。)

なので、直感的な感想としては「その発想力と技術力で大活躍する前に、もう少し人間関係構築(および、そのためのスキル)に心を配ってもいいのでは?」と思ってしまう。
つまり、「強みの強化をする前に、弱みを克服しては?」と。

でも、この感想はおそらく、自分が育ってきた過程において「強みの強化」よりも「弱みの克服」が重視されていたためだろうなぁ、とも思う。

しかし、時代の流れとしては「弱みを克服した規格品」よりも「強みを強化した規格外品」への評価が上がってきている。
(ただもちろん、弱みに関しても“放置”するわけではなく、最低限のダメージコントロール、といった視点は残っていると思うけれど。)

例えば、マーク・ザッカーバーグが自分の発想力や技術力を伸ばすことに注力するよりも、「ぼくは友達を上手く作れない。。」と悩み、「人に好かれるには」みたいなことをひたすら勉強していたとしたら、Facebookは生まれなかったか・生まれるのがずっと遅れただろう。しかし現実にはマークは、対人能力の欠如はひとまず置いておいて、自分の強みを強化した。だからこそFacebookが生まれ、人々は彼に拍手喝采した。

というわけで、ごく大ざっぱに言って、これは必ずしも悪いことでもなさそうだ。

ただその一方、「隣にいる人は(も)たぶん規格品」という前提に基づいた安心感が成り立たなくなるわけだから、社会全体としての調和や一体感は弱まるだろうし、それゆえ、人々が互いに互いの“いびつさ”を許容していくことも、より重要になるのだろうと思う。
(ただ、マークややっぱりもう少し、人間関係に気を使ったほうが良かったとは思っちゃうけれど。)

以上、かなり偏った視点での映画鑑賞となりました。(でも、勉強になった。)
明日は出来たら午後休をとってオーケストラ!を観に行きたいなぁ。。

【Vicom2010年 12月10日を転載】保険としてのinclusive。

さきの日記で何気なく、
「誰か・何かをexcludeしていればしているほど、いつか自分がその誰か・何かの要素を持った時、自分自身をもexcludeせざるをえず・自己否定に向かわざるを得なくなるようにも思うし。」
と書いたけれど、書いてから自分でこの文章が気になりだした。

この考え方って、ちょっと“保険”みたい。

わたしの心・価値観の中では、「出来る限り人をexcludeしない」ということが大きな位置を占めているように思うけれど、これは一つには「人をexcludeする価値観」が長期的・将来的には自分自身をも排除し・傷つけるリスクを察知しているからなのだろう。

(例えば、私が老いを排除する価値観を抱いていたとしたら、自分が老いた時は無意識のうちに自分自身をexclude・否定せざるを得ず、非常に辛い思いをするだろう。
また例えば、私が何らかの病を持った人を排除する価値観を持っていたとしたら、もし自分がその病にかかったとしたら、その場合も間違いなく、自己否定に向かわざるを得ず・苦しむだろう。
逆に、老いにも病にも寛大な価値観をもともと持っていたとしたら、自分が老いたとしても・病になったとしても、(他人からの排除はともかく)少なくとも自己否定の苦しみは味あわなくて済む。)

そういう風に考えると、「出来るだけ人をexcludeしない」というスタンスで生きていくことはある意味、「自分がexcludeされかねない要素を抱えてしまったときに備え、予め保険の掛け金を払っている」という見方もできなくない。

もちろん、そんな保険のようなことしか考えていないわけではないけれど。
例えば、「あなたはこれから死ぬまで、人に排除されるような要素を抱えてしまうことはありません。あなたはこれからずっと強者です。」と神様か誰かにお墨付きをもらったとしても、今となっては、「あ、わたしは安全地帯にいるんだ。じゃあ、遠慮なく人を排除しよう」とは思わないし。(⇒でも、生まれた時から自分をずっと強者だと感じて生きてきたとしたら、自分がそうならなかったとも限らない。)

ただ、いずれにしても“人を排除しない(=苦しめない)”と“自分で自分を排除したくない(=苦しみたくない)”がわたしのなかで色濃く結びついていることは否定できないように思う。

でも、この“保険”に関しては、掛け金を熱心に払う人々と一切払わない人々など、普及率には大きな差があるみたい。もちろん、掛け金を払っている人にしても・払っていない人にしても、“保険”なんていう考え方はしていないと思うけれど。

でも、掛け金を一切払っていない人たちが、「他者を排除しない価値観・生き方をすること」が「将来の自分を守ることにもつながる」と上手く納得したとしたら、動機はともあれ、結果としてはよりinclusiveで・弾力のある社会に近づくかもしれない。

【Vicom2010年 12月10日を転載】"gender identity"and "sexual orientation"

こういう内容は誤解を呼びやすくて、あっさり誤解されると興味本位で語られるので、それは本意ではないけれど、個人的には真面目に考えて・考えをまとめておきたい。
というのは、人種や文化、障がいなどと同様に、(無意識のうちにでも)多数派が少数派を深刻に苦しめている可能性が高い領域だと思うし、それを抜きにして単に自分という存在を考える上でもやっぱり、gender identityやsexual orientationというのは大切なことで、自分なりの捉え方・考え方を(自分の中で)明確にしておきたいから。
最近ひさしぶりに、こういった話に触れる機会があったので、ちょうどいいから、現在に至る自分の考えの流れを文章にしておこう。

まず、この領域に私が初めて興味・関心を持つようになったのは大学の頃。

授業で触れられた"Compulsory heterosexuality and lesbian existence"(Adrienne Rich)という論文にびっくりした。”異性愛が社会によって強制されている”とは、極端ではあるけれど、ある意味目からウロコというか。

確かに、例えば「ゲイだけれど、(それを明らかにして生きていくには社会的な風当たりが強いから)女性と結婚する」という話は聞いたことがあった。
それに、もしも自分がストレートでなかったとしても、それを日本の社会生活の中で自然にカムアウトして生きていくのはとても難しいと思う。(→可能とは思うけれど、それをすることによって被るであろう精神的ストレスや社会的・経済的不利益等を考慮するとかなりリスクが高い。)
というわけで、確かにかなりの程度で異性愛が強制されていることに疑いはない。そしてそのことによって当然「異性愛が当たり前」という非常に強いメッセージが社会から発信されているわけで、その中で生まれ育っていく子どもたちは、異性愛へと“誘導”もされている。 

と考えると、自分も今まで生まれ育ってきた中で、異性愛に“誘導”されてきたから異性愛社会に適応した、という面もあるんだろうか?と当時、興味を抱くようになった。

例えば全く逆に、社会が同性愛を前提として出来あがっていたとしたら。
同性としか結婚できないとか、同性ではなく異性と付き合うと回りにびっくりされるとか。
もしそういう社会で生まれ育ったなら、もしかして自分の中に今とは全く逆のsexual orientationが形成された可能性はあるんだろうか?

そんな風に疑問に思って、「だったら、同性愛が当たり前の場所にちょっと身を置いてみよう」と思って、当時フィールドワーク的に、ストレートではない人たちが集まる場所にしばらく関わってみた。(⇒その頃初めて、"gender identity(性自認)"と"sexual orientation(性指向。嗜好ではなく。)"の区別も明確に理解した。)

結論から言うと。
幸か不幸か?私の場合、gender identityやsexual orientationに関する自己認識が完全にひっくり返されるようなことはなかった。その一方、もしも生まれたときから“強制的同性愛”の社会で育ったとしたら、それなりにその社会に何とか適応した可能性もなくはないかなぁ、と。

一人の人間の中には大抵の場合、(gender identityに関して言えば)男性性も女性性も両方あるし、(sexual orientationに関して言えば)異性愛的傾向もあれば同性愛的傾向もある。ただその人が「男性」「女性」或いは「異性愛」「同性愛」と区分されるのは、「どちら寄りか」ということをグラデーションのどこかでスパッと切り分けただけ。 
そして、その線をどこで・どのように引くのか、どこからどこを“異端”と見做すのか、についてはその時・その場所の社会の在りようによって全然変わってくる。
そういう結論に至った。 

この結論は、わたしの中ではすごくしっくりきて、気にいっている。
この考え方なら、たぶん、誰のことも傷つけない(と思う)。例えばもしも自分がストレートじゃないとある日突然気づいたとしても、自分も傷つかない(と思う)。

誰か・何かをexcludeしていればしているほど、いつか自分がその誰か・何かの要素を持った時、自分自身をもexcludeせざるをえず・自己否定に向かわざるを得なくなるようにも思うし。

そして、このグラデーションの考え方は明らかに過去に書いた日記の内容(http://sns.vitaljapan.com/?m=pc&a=page_fh_diary&t...http://sns.vitaljapan.com/?m=pc&a=page_fh_diary&t...)にも重なっている。↑これらの日記のほうの内容は、大学生の時には明確に意識したことはなかったけれど。
自分の中にある薄ぼんやりしたものの輪郭がちょっとずつ明らかになってくるにつれ、色んなことが繋がってみえてくるのかも。色んな人や本や経験の力を借りて、もっと色んな“薄ぼんやり”が明らかになって、もっと色んなことが頭や心の中で繋がっていくといいな。

【Vicom2010年 11月28日投稿を転載】K田さんの日記を読んで思ったこと。

先日のK田さんの日記(http://sns.vitaljapan.com/?m=pc&a=page_fh_diary&t...)を見て、以前も日記に登場させてしまった歌人穂村弘さんの別のエッセイを思い出した。

それは「子ども時代の絶体絶命感」について書かれたもの。

簡単に言うと、「子ども時代の絶体絶命感は、大人になってからのそれと比較にならないほど圧倒的なものだ」という話し。
「絶体絶命感」て何のことかと言えば、その言葉の通り「ああ、もうどうにもならない。この世の終わりだ。」と追いつめられた心理状態。

例えば、翌日のテストがもうどうにもならないほど恐ろしくて、「学校なんて燃えちゃえばいいのに」と思う。
ぼくんちには部屋が10コもあるんだよ!」みたいな他愛ない(?)嘘をついてしまって、「じゃあほんとかどうか見せてみろ!」と言われてクラスメイ
トと連れだって、3LDKの家に向かう帰り道。
クロールが出来ないのに、水泳大会に自由型で出場しなくてはならず、一人だけ平泳ぎで泳ぐ羽目になったとき。

それら子ども時代の絶体絶命感は、大人になってからのそれとは比較にならない、と。

大人になってからももちろん、何かに非常に追い込まれることはあるんだけれども、でもどこかで「これはいつ(か)終わる。その先がある」とか「ここ以外の場所もある」ということが分かっている、と。

これはすごく分かる。
わたしも、今でも覚えている「子ども時代の絶体絶命感」がいくつかある。
今となっては他愛なくても、あの時感じた追いつめられ感は圧倒的だったと思う。だからこそ、今でも覚えているんだと思うし。

そして、「いじめ」は上で挙げたような例とも較べものにならないような絶体絶命感を生みだすだろう。子どもたちは「これはいつ(か)終わる。その先がある」「ここ以外の場所もある」ということを信じられるほどの年月を生きていないし、経験をしていない。

と考えると、いじめが無くならない以上は「先がある」「他の場所もある」ということを子どもたちに示してあげることが大切なのかな、と思う。(例えば、河田さんが社会人バンドについて語られているように。)

理不尽ないじめに対して「その場で踏ん張る」にしても「退却して他の場所を探す」にしても、「先」や「他の場所」の存在を信じられなくては絶体絶命感から抜け出ることは難しい。

ついでに言えば、私も大人になってから感じる幸せの一つとして、「自分の居場所を自分で選べるようになったこと」も大きいなぁと思う。

とくに周囲との人間関係で極度に辛い思いをしたことはないのだけれど、それでも、学校という均質的で閉じた空間・集団の中にある程度適応して生きていくために使ったエネルギーはわりと大きかったように思う。

学校って、もともとは過酷な大人社会から子どもたちを守る目的もあって設けられているはずだけれど、子どものタイプによっては学校のが危険になってしまっているのかも。

今のところ教育現場にも関わっていないし、自分の子どももいないから、この問題に関してすぐに自分が出来ることって思いつかないんだけれど、そんな風に思う。

 

【Vicom2010年 10月18日投稿を転載】「あきらめる」

わたしは「諦める」という言葉が好き。と言えば、?と思われそう。

でも、自分の心のうちを覗いてみて、心の在り方の大きな部分を表わす言葉として辿りつき・すごくしっくりくるのがこの言葉だった。
ただもちろん、必ずしも現代一般的に使われるネガティブな意味での捉え方ではなくて、自分なりのプラスの意味をこの言葉の解釈に加えていた。
そしたらあるとき、「諦める」の語源は仏教にあり、その意味に「つまびらかにする」「明らかにする」という、私の捉え方と近いものが含まれることを知った。
あまりにしっくりくるので、もしかしたら過去のどこかの時点で「諦める」の仏教的語源がすでに私の頭の中に入っていたのかもしれないけれど。(というか、たぶんそう。)

いずれにしろ、仏教の考え方でも・わたしにとっても「諦める」は決してネガティブな言葉ではない。
漢語の「諦」はサンスクリット語satyaの訳語で、真理・道理を意味するのだという。
そこから、「物事の真理を明らかにする→自らの希望・目標等が達成されないことが明らかとなる→断念する」といった解釈の流れが生まれ、現代はその最後の「断念する」の部分だけが残ってしまったのだろう。
しかし、もともとの意味やわたしの印象では、「諦める」の力点はどちらかというと、「明らかにする」「つまびらかにする」というところにあり、それにさらに付け加えるとすれば「(現代語での)諦める」ではなくて「受け容れる」という意味合いだろうか。

物事をあるがままに見つめ(ようと試み)、それを事実として受け容れる。シンとした静かな心持ち。

それが、わたしにとっての「諦める」という言葉のイメージ。そしてその解釈に基づき、じぶんの中にいつの間にか根づいているキーワードの一つが「自分が自分であることを諦める」。これは強いて言えば、「自分が自分であることを受け容れる」に近いか。

と、そんなことを考える一方で、(自分も含め)現代人は「自分が自分であることを諦める」ということをとても苦手としているように思う。「諦めない」ことが美しいとされ、「諦める」ことは良くないことだと思いこんでしまう。
それゆえ、「諦める」ことには、必ず痛みや敗北感が伴うこととなる。
しかし、必ずしも「今そこにないもの」を求め続けることが正しく、「今そこにあるもの」を受け容れることが誤っていて・敗北であるとは限らないと思う。

ときには、「つまびらかにし、受け容れる」ことで心穏やかになり、今まで目に入っていなかったものが見えてくることもあるんじゃないか。
上手く言えないのだけれど、そんな風に思う。

もちろん、「諦めない(=give upしない)」ことを否定するつもりは全然なくて、多くの局面で「諦めない」ことは美しいし・価値がある。
でも同時に、「諦めない」ことに価値を置き過ぎるあまり、「つまびらかにし、受け容れる」ほうの価値が見過ごされがちな気もする。