日々雑感

元牛飼いの会社員です。時折、考えたことを書いています。

【Vicom2011年 02月02日投稿を転載】 映画『ソーシャルネットワーク』鑑賞。

先日、話題の映画『ソーシャル・ネットワーク』を観てきました。かなりフィクションの要素が強いみたいだけど、一応、Facebook創設にまつわるお話。(↓直接的にはそんなにネタばれしてないと思います。長いので気が向いたら読んでください。。)

ハーバード大生のマーク・ザッカーバーグは、斬新な発想・確かな技術等から、自身の創設したソーシャルネットワーキングサイト、Facebookを大成功させる。
一方彼は、共同創設者や創設に関係した人々から訴訟を起こされる。
映画は、成功とその陰にある人間ドラマを2時間濃縮で描く。
テンポよく進むストーリーに、倍速じゃないかと思うほど早口な台詞。ちょっと頭は疲れるけど、まったく退屈しない。
でも、台詞とストーリーを追うのに集中していたら、「そろそろ終わりかな」と予感する間もなくエンディングに連れて行かれ、あっけないくらい。

見ている最中はあんまり余裕が無かったので、後から振り返ってみた。

私はいつの間にかこの映画を“強みを生かす”⇔“弱みを克服する”という視点から見てたみたい。
というのも、コーチングのクラスでちょうど“強みを生かす”という内容を扱っているところだったので。

つまり、Facebook成功は彼の強み(=発想力、技術力等)を強化した結果であり、訴訟等につながる部分は弱み(=おもに、対人能力の欠如)を克服しなかった結果、という捉え方で。

ストーリー中に見る限り、マーク・ザッカーバーグのコミュニケーションには相当問題がある。
相手の視点に立って考える、という手間を殆どかけないし、多くの局面で“私は正しい、あなたは間違っている(I'm OK, you're not OK.)”の立ち位置から会話を進めるので、周囲との摩擦や誤解が絶えない。根っこの部分はとくに悪人でもないのだけれど、近くにいたら感情面で無駄にダメージを与えられそうで、正直なところ、あんまり近くにいてほしいタイプとは言えない。(映画の中でも“友人は少ない”というふうに描かれている。)

なので、直感的な感想としては「その発想力と技術力で大活躍する前に、もう少し人間関係構築(および、そのためのスキル)に心を配ってもいいのでは?」と思ってしまう。
つまり、「強みの強化をする前に、弱みを克服しては?」と。

でも、この感想はおそらく、自分が育ってきた過程において「強みの強化」よりも「弱みの克服」が重視されていたためだろうなぁ、とも思う。

しかし、時代の流れとしては「弱みを克服した規格品」よりも「強みを強化した規格外品」への評価が上がってきている。
(ただもちろん、弱みに関しても“放置”するわけではなく、最低限のダメージコントロール、といった視点は残っていると思うけれど。)

例えば、マーク・ザッカーバーグが自分の発想力や技術力を伸ばすことに注力するよりも、「ぼくは友達を上手く作れない。。」と悩み、「人に好かれるには」みたいなことをひたすら勉強していたとしたら、Facebookは生まれなかったか・生まれるのがずっと遅れただろう。しかし現実にはマークは、対人能力の欠如はひとまず置いておいて、自分の強みを強化した。だからこそFacebookが生まれ、人々は彼に拍手喝采した。

というわけで、ごく大ざっぱに言って、これは必ずしも悪いことでもなさそうだ。

ただその一方、「隣にいる人は(も)たぶん規格品」という前提に基づいた安心感が成り立たなくなるわけだから、社会全体としての調和や一体感は弱まるだろうし、それゆえ、人々が互いに互いの“いびつさ”を許容していくことも、より重要になるのだろうと思う。
(ただ、マークややっぱりもう少し、人間関係に気を使ったほうが良かったとは思っちゃうけれど。)

以上、かなり偏った視点での映画鑑賞となりました。(でも、勉強になった。)
明日は出来たら午後休をとってオーケストラ!を観に行きたいなぁ。。

【Vicom2010年 12月10日を転載】保険としてのinclusive。

さきの日記で何気なく、
「誰か・何かをexcludeしていればしているほど、いつか自分がその誰か・何かの要素を持った時、自分自身をもexcludeせざるをえず・自己否定に向かわざるを得なくなるようにも思うし。」
と書いたけれど、書いてから自分でこの文章が気になりだした。

この考え方って、ちょっと“保険”みたい。

わたしの心・価値観の中では、「出来る限り人をexcludeしない」ということが大きな位置を占めているように思うけれど、これは一つには「人をexcludeする価値観」が長期的・将来的には自分自身をも排除し・傷つけるリスクを察知しているからなのだろう。

(例えば、私が老いを排除する価値観を抱いていたとしたら、自分が老いた時は無意識のうちに自分自身をexclude・否定せざるを得ず、非常に辛い思いをするだろう。
また例えば、私が何らかの病を持った人を排除する価値観を持っていたとしたら、もし自分がその病にかかったとしたら、その場合も間違いなく、自己否定に向かわざるを得ず・苦しむだろう。
逆に、老いにも病にも寛大な価値観をもともと持っていたとしたら、自分が老いたとしても・病になったとしても、(他人からの排除はともかく)少なくとも自己否定の苦しみは味あわなくて済む。)

そういう風に考えると、「出来るだけ人をexcludeしない」というスタンスで生きていくことはある意味、「自分がexcludeされかねない要素を抱えてしまったときに備え、予め保険の掛け金を払っている」という見方もできなくない。

もちろん、そんな保険のようなことしか考えていないわけではないけれど。
例えば、「あなたはこれから死ぬまで、人に排除されるような要素を抱えてしまうことはありません。あなたはこれからずっと強者です。」と神様か誰かにお墨付きをもらったとしても、今となっては、「あ、わたしは安全地帯にいるんだ。じゃあ、遠慮なく人を排除しよう」とは思わないし。(⇒でも、生まれた時から自分をずっと強者だと感じて生きてきたとしたら、自分がそうならなかったとも限らない。)

ただ、いずれにしても“人を排除しない(=苦しめない)”と“自分で自分を排除したくない(=苦しみたくない)”がわたしのなかで色濃く結びついていることは否定できないように思う。

でも、この“保険”に関しては、掛け金を熱心に払う人々と一切払わない人々など、普及率には大きな差があるみたい。もちろん、掛け金を払っている人にしても・払っていない人にしても、“保険”なんていう考え方はしていないと思うけれど。

でも、掛け金を一切払っていない人たちが、「他者を排除しない価値観・生き方をすること」が「将来の自分を守ることにもつながる」と上手く納得したとしたら、動機はともあれ、結果としてはよりinclusiveで・弾力のある社会に近づくかもしれない。

【Vicom2010年 12月10日を転載】"gender identity"and "sexual orientation"

こういう内容は誤解を呼びやすくて、あっさり誤解されると興味本位で語られるので、それは本意ではないけれど、個人的には真面目に考えて・考えをまとめておきたい。
というのは、人種や文化、障がいなどと同様に、(無意識のうちにでも)多数派が少数派を深刻に苦しめている可能性が高い領域だと思うし、それを抜きにして単に自分という存在を考える上でもやっぱり、gender identityやsexual orientationというのは大切なことで、自分なりの捉え方・考え方を(自分の中で)明確にしておきたいから。
最近ひさしぶりに、こういった話に触れる機会があったので、ちょうどいいから、現在に至る自分の考えの流れを文章にしておこう。

まず、この領域に私が初めて興味・関心を持つようになったのは大学の頃。

授業で触れられた"Compulsory heterosexuality and lesbian existence"(Adrienne Rich)という論文にびっくりした。”異性愛が社会によって強制されている”とは、極端ではあるけれど、ある意味目からウロコというか。

確かに、例えば「ゲイだけれど、(それを明らかにして生きていくには社会的な風当たりが強いから)女性と結婚する」という話は聞いたことがあった。
それに、もしも自分がストレートでなかったとしても、それを日本の社会生活の中で自然にカムアウトして生きていくのはとても難しいと思う。(→可能とは思うけれど、それをすることによって被るであろう精神的ストレスや社会的・経済的不利益等を考慮するとかなりリスクが高い。)
というわけで、確かにかなりの程度で異性愛が強制されていることに疑いはない。そしてそのことによって当然「異性愛が当たり前」という非常に強いメッセージが社会から発信されているわけで、その中で生まれ育っていく子どもたちは、異性愛へと“誘導”もされている。 

と考えると、自分も今まで生まれ育ってきた中で、異性愛に“誘導”されてきたから異性愛社会に適応した、という面もあるんだろうか?と当時、興味を抱くようになった。

例えば全く逆に、社会が同性愛を前提として出来あがっていたとしたら。
同性としか結婚できないとか、同性ではなく異性と付き合うと回りにびっくりされるとか。
もしそういう社会で生まれ育ったなら、もしかして自分の中に今とは全く逆のsexual orientationが形成された可能性はあるんだろうか?

そんな風に疑問に思って、「だったら、同性愛が当たり前の場所にちょっと身を置いてみよう」と思って、当時フィールドワーク的に、ストレートではない人たちが集まる場所にしばらく関わってみた。(⇒その頃初めて、"gender identity(性自認)"と"sexual orientation(性指向。嗜好ではなく。)"の区別も明確に理解した。)

結論から言うと。
幸か不幸か?私の場合、gender identityやsexual orientationに関する自己認識が完全にひっくり返されるようなことはなかった。その一方、もしも生まれたときから“強制的同性愛”の社会で育ったとしたら、それなりにその社会に何とか適応した可能性もなくはないかなぁ、と。

一人の人間の中には大抵の場合、(gender identityに関して言えば)男性性も女性性も両方あるし、(sexual orientationに関して言えば)異性愛的傾向もあれば同性愛的傾向もある。ただその人が「男性」「女性」或いは「異性愛」「同性愛」と区分されるのは、「どちら寄りか」ということをグラデーションのどこかでスパッと切り分けただけ。 
そして、その線をどこで・どのように引くのか、どこからどこを“異端”と見做すのか、についてはその時・その場所の社会の在りようによって全然変わってくる。
そういう結論に至った。 

この結論は、わたしの中ではすごくしっくりきて、気にいっている。
この考え方なら、たぶん、誰のことも傷つけない(と思う)。例えばもしも自分がストレートじゃないとある日突然気づいたとしても、自分も傷つかない(と思う)。

誰か・何かをexcludeしていればしているほど、いつか自分がその誰か・何かの要素を持った時、自分自身をもexcludeせざるをえず・自己否定に向かわざるを得なくなるようにも思うし。

そして、このグラデーションの考え方は明らかに過去に書いた日記の内容(http://sns.vitaljapan.com/?m=pc&a=page_fh_diary&t...http://sns.vitaljapan.com/?m=pc&a=page_fh_diary&t...)にも重なっている。↑これらの日記のほうの内容は、大学生の時には明確に意識したことはなかったけれど。
自分の中にある薄ぼんやりしたものの輪郭がちょっとずつ明らかになってくるにつれ、色んなことが繋がってみえてくるのかも。色んな人や本や経験の力を借りて、もっと色んな“薄ぼんやり”が明らかになって、もっと色んなことが頭や心の中で繋がっていくといいな。

【Vicom2010年 11月28日投稿を転載】K田さんの日記を読んで思ったこと。

先日のK田さんの日記(http://sns.vitaljapan.com/?m=pc&a=page_fh_diary&t...)を見て、以前も日記に登場させてしまった歌人穂村弘さんの別のエッセイを思い出した。

それは「子ども時代の絶体絶命感」について書かれたもの。

簡単に言うと、「子ども時代の絶体絶命感は、大人になってからのそれと比較にならないほど圧倒的なものだ」という話し。
「絶体絶命感」て何のことかと言えば、その言葉の通り「ああ、もうどうにもならない。この世の終わりだ。」と追いつめられた心理状態。

例えば、翌日のテストがもうどうにもならないほど恐ろしくて、「学校なんて燃えちゃえばいいのに」と思う。
ぼくんちには部屋が10コもあるんだよ!」みたいな他愛ない(?)嘘をついてしまって、「じゃあほんとかどうか見せてみろ!」と言われてクラスメイ
トと連れだって、3LDKの家に向かう帰り道。
クロールが出来ないのに、水泳大会に自由型で出場しなくてはならず、一人だけ平泳ぎで泳ぐ羽目になったとき。

それら子ども時代の絶体絶命感は、大人になってからのそれとは比較にならない、と。

大人になってからももちろん、何かに非常に追い込まれることはあるんだけれども、でもどこかで「これはいつ(か)終わる。その先がある」とか「ここ以外の場所もある」ということが分かっている、と。

これはすごく分かる。
わたしも、今でも覚えている「子ども時代の絶体絶命感」がいくつかある。
今となっては他愛なくても、あの時感じた追いつめられ感は圧倒的だったと思う。だからこそ、今でも覚えているんだと思うし。

そして、「いじめ」は上で挙げたような例とも較べものにならないような絶体絶命感を生みだすだろう。子どもたちは「これはいつ(か)終わる。その先がある」「ここ以外の場所もある」ということを信じられるほどの年月を生きていないし、経験をしていない。

と考えると、いじめが無くならない以上は「先がある」「他の場所もある」ということを子どもたちに示してあげることが大切なのかな、と思う。(例えば、河田さんが社会人バンドについて語られているように。)

理不尽ないじめに対して「その場で踏ん張る」にしても「退却して他の場所を探す」にしても、「先」や「他の場所」の存在を信じられなくては絶体絶命感から抜け出ることは難しい。

ついでに言えば、私も大人になってから感じる幸せの一つとして、「自分の居場所を自分で選べるようになったこと」も大きいなぁと思う。

とくに周囲との人間関係で極度に辛い思いをしたことはないのだけれど、それでも、学校という均質的で閉じた空間・集団の中にある程度適応して生きていくために使ったエネルギーはわりと大きかったように思う。

学校って、もともとは過酷な大人社会から子どもたちを守る目的もあって設けられているはずだけれど、子どものタイプによっては学校のが危険になってしまっているのかも。

今のところ教育現場にも関わっていないし、自分の子どももいないから、この問題に関してすぐに自分が出来ることって思いつかないんだけれど、そんな風に思う。

 

【Vicom2010年 10月18日投稿を転載】「あきらめる」

わたしは「諦める」という言葉が好き。と言えば、?と思われそう。

でも、自分の心のうちを覗いてみて、心の在り方の大きな部分を表わす言葉として辿りつき・すごくしっくりくるのがこの言葉だった。
ただもちろん、必ずしも現代一般的に使われるネガティブな意味での捉え方ではなくて、自分なりのプラスの意味をこの言葉の解釈に加えていた。
そしたらあるとき、「諦める」の語源は仏教にあり、その意味に「つまびらかにする」「明らかにする」という、私の捉え方と近いものが含まれることを知った。
あまりにしっくりくるので、もしかしたら過去のどこかの時点で「諦める」の仏教的語源がすでに私の頭の中に入っていたのかもしれないけれど。(というか、たぶんそう。)

いずれにしろ、仏教の考え方でも・わたしにとっても「諦める」は決してネガティブな言葉ではない。
漢語の「諦」はサンスクリット語satyaの訳語で、真理・道理を意味するのだという。
そこから、「物事の真理を明らかにする→自らの希望・目標等が達成されないことが明らかとなる→断念する」といった解釈の流れが生まれ、現代はその最後の「断念する」の部分だけが残ってしまったのだろう。
しかし、もともとの意味やわたしの印象では、「諦める」の力点はどちらかというと、「明らかにする」「つまびらかにする」というところにあり、それにさらに付け加えるとすれば「(現代語での)諦める」ではなくて「受け容れる」という意味合いだろうか。

物事をあるがままに見つめ(ようと試み)、それを事実として受け容れる。シンとした静かな心持ち。

それが、わたしにとっての「諦める」という言葉のイメージ。そしてその解釈に基づき、じぶんの中にいつの間にか根づいているキーワードの一つが「自分が自分であることを諦める」。これは強いて言えば、「自分が自分であることを受け容れる」に近いか。

と、そんなことを考える一方で、(自分も含め)現代人は「自分が自分であることを諦める」ということをとても苦手としているように思う。「諦めない」ことが美しいとされ、「諦める」ことは良くないことだと思いこんでしまう。
それゆえ、「諦める」ことには、必ず痛みや敗北感が伴うこととなる。
しかし、必ずしも「今そこにないもの」を求め続けることが正しく、「今そこにあるもの」を受け容れることが誤っていて・敗北であるとは限らないと思う。

ときには、「つまびらかにし、受け容れる」ことで心穏やかになり、今まで目に入っていなかったものが見えてくることもあるんじゃないか。
上手く言えないのだけれど、そんな風に思う。

もちろん、「諦めない(=give upしない)」ことを否定するつもりは全然なくて、多くの局面で「諦めない」ことは美しいし・価値がある。
でも同時に、「諦めない」ことに価値を置き過ぎるあまり、「つまびらかにし、受け容れる」ほうの価値が見過ごされがちな気もする。

【Vicom2010年 09月14日投稿を転載】映画「インセプション」を観て。

しばらく前に映画「inception」を観た。
もう一回観に行ってから文章にしようと思っていたんだけれど、なかなか2回目を観に行けないから、とりあえず書いとこう。

この映画、評判通りにすごく面白かった。

私の印象としては、マトリックス(やアバター)に通ずるものがある。
どこが通ずるか文字にしてみると、

●「身体と精神は分離可能」という前提に立っていて、
●「現実と非現実の境界に関する不確かさがある」

というところかな。
後者に関しては、「映画を見ているうちにどのシーンが現実か分からなくなる」という直接的な話ではなくて、「非現実のリアルさが現実のリアルさに限りなく肉薄したとき、非現実と現実に区別をつける意味は?」みたいな疑問が映画の中に含まれている、という意味で。

それにしても、こういうマトリックス的視点の映画がすっかりお馴染みになってきた。もちろんそれよりもっと前にもSF映画などで同系統のものはあったと思うけれど、「身体と精神は分離可能」「現実と非現実の境界の不確かさ」という視点や感覚が、ここまで世間一般的にすんなりと受け容れられるようになったのは、インターネットが普及したからなんだろうなぁ。

ネットに親しんだ人たちにとって、「仮想世界の中で自由に羽ばたく精神」と「ディスプレイの前に取り残された身体」というのは、無意識のうちに峻別されて、結果として、「身体⇔精神」を二項対立的に捉える傾向が強まる(たぶん)。
逆に、全身に汗をかきながら畑仕事をしている人が「ああ、早く汗を流してビールを飲みたい」と思っているとき、「自分の精神と身体は分離可能だ」、とはあんまり思いつかないと思うし。

というわけで、インターネットの普及によって人々は身体と精神の境界を、無意識のうちに、より深い境目として捉えるようになってきている(はず)。

で、それがいいことなのか悪いことなのか?正しいことなのか間違ったことなのか?というと、わたしにはよく分からない。

けれど、(たぶん)仏教的なわたしからすると、やっぱり身体⇔精神についても二項対立はしっくりこないし、不自然な感じがする。そして、そういう相対する概念に関して私がもつお気に入りの捉え方は「グラデーション」だから、「身体⇔精神」についてもそう捉えたくなる。

というのが私の今考える・思うこと。でも、もうちょっとちゃんと考えを深めたいから、何か関連する本を読んでみよう。あとは、インセプションも公開が終わるまでにやっぱりもう一回観に行きたい。

【Vicom2010年 09月04日投稿を転載】エッセイを読んで、脈絡なく。

穂村弘さん(歌人・エッセイスト)のエッセイを読んでいたら、小さな頃に「右」と「左」の概念を理解するのに時間を要した、というようなことが書いてあった。「東」や「西」だったらまだ分かる。常に決まった方向が「東」や「西」だから。でも、「右」は、自分が動くと「右」も動く。一体「右」ってなんなんだ、と思った、というようなこと。
私は、自分が「右」「左」をどのような過程を経て理解したのか覚えていないけれど、似た経験を思い出した。

私の場合は、「天然」と「人工」をうまく理解できなかった。
「天然の塩」か何かをスーパーで売っていて、「天然ってなに?」と母に訊き、説明してもらった。
じゃあ、「天然じゃない塩は何なの?」と訊くと、「人工。人間が作ったもの」みたいな答えだった。
でも私は腑に落ちなくて、当時は上手く説明出来なかったけれど、要は、「人間が作った、と言っても無から作りだしたわけじゃないし、もともとは自然界にあるものから作り出されているのに、どこで『天然・自然』と『人工』が分かれるのか」がうまく理解できなかった。
もちろん、その後だんだんと、世間一般的なところの「天然・自然」と「人工」の境目は学習した。でも、今でもあの時にうまく理解できなかった違和感は記憶の中に強く残っている。

でも、穂村氏も書いていたけれど、こういうのは大人になると気にならなくなっていく。穂村氏も今はちゃんと「右」と「左」は分かるし、と。

それは便利なことだし、人が社会的に生きていくうえで必要なことと思う。
その一方、単に便宜上に定められただけのものを永久不変の真理であるかのようにいつの間にか考えてしまって、「右」「左」「天然」「人工」という言葉ではうまく拾えない部分を取りこぼしていることに気づかなくなってしまっているんじゃないか、という気もする。

例えば、「天然」「人工」という言葉を単独で取りだすときは、あくまで概念として存在する。
でも、「この●●は天然」というように言葉が具体性を帯びた時は、本当は「●●=天然」というわけではなく「●●は天然の性質を帯びている・天然寄りだ」というほうが近いように思う。
なんていうか、「天然」という言葉の範囲に入ればとりあえずはそう呼ぶけれど、必ずしも●●が天然という言葉の持つ意味のど真ん中にはいないだろう、というか。
でも、日常生活で用いる言葉ではそんなまだるっこしい言い方も考え方もしないから、世の中のあらゆる事物・事象などは、言葉によって切り分けられていく。ど真ん中にはないものでも、とりあえず・便宜上は、どこかに押し込められる。そうしないと、曖昧な領域が増えて、社会が上手く進んでいかないから。

でも、この「名づける」「分類する」ということによって「そのものの正体がわかった・明らかになった」ように思ってしまい、そのことが逆に、現実の事物・事象をありのまま・あるがままに見ることを妨げることにもつながっていると思う。卑近な例でいえば、「あの人は●●な人だ」と自分の中で決めつけてしまうことによって、今その瞬間自分の目の前にいるその人ではなくて「●●」という言葉でそのひとを限定的に捉えてしまったり。

と思うと、あらゆる事物・事象などについて考えるときは、できるだけ、「●●は××だ」のように厳然たる未来永劫変わらない真実であるかのように捉えるのではなくて、もっと緩やかで・様々な可能性を含むグレーゾーンを受け容れる余裕をもった捉え方をしたいと思う。
という考え方は、たぶんとても個人的で、必ずしも賛同を得られないと思うけれど、そう思う。

そして、この考え方と言うのはやっぱり、曖昧さや余韻や、言葉によって言いつくされないものに価値を置く、日本的な発想の流れにあるのだろうか、と思う。


と、ここまで考えてまた別のことを思い出した。
昨日の、林さんに受けたコーチングの中で私が気づいたこと。

私は、よく推奨される“測定可能な”目標の設定が苦手で、“(どちらかというと)測定困難な”目標設定に向かいがちだ。
もちろん、内容によっては明らかに測定可能な目標設定が可能で・適している場合も多々あるけれど、近頃はそれが行きすぎて、すべての領域で測定可能なほうが偉いというか、とにかく測定可能>測定不可能、という価値観が固定されすぎているようにも思う。

言葉によって適切に表現されづらい部分にも心を配りたいと思っている私としては、言葉だけではなく“測定”というものによっても、物事がさらに限定的にしか捉えられなくなっていくような気がして、測定万能主義のさらなる台頭に、何となく怯えてしまう。