【Vicom2010年 11月28日投稿を転載】K田さんの日記を読んで思ったこと。

先日のK田さんの日記(http://sns.vitaljapan.com/?m=pc&a=page_fh_diary&t...)を見て、以前も日記に登場させてしまった歌人穂村弘さんの別のエッセイを思い出した。

それは「子ども時代の絶体絶命感」について書かれたもの。

簡単に言うと、「子ども時代の絶体絶命感は、大人になってからのそれと比較にならないほど圧倒的なものだ」という話し。
「絶体絶命感」て何のことかと言えば、その言葉の通り「ああ、もうどうにもならない。この世の終わりだ。」と追いつめられた心理状態。

例えば、翌日のテストがもうどうにもならないほど恐ろしくて、「学校なんて燃えちゃえばいいのに」と思う。
ぼくんちには部屋が10コもあるんだよ!」みたいな他愛ない(?)嘘をついてしまって、「じゃあほんとかどうか見せてみろ!」と言われてクラスメイ
トと連れだって、3LDKの家に向かう帰り道。
クロールが出来ないのに、水泳大会に自由型で出場しなくてはならず、一人だけ平泳ぎで泳ぐ羽目になったとき。

それら子ども時代の絶体絶命感は、大人になってからのそれとは比較にならない、と。

大人になってからももちろん、何かに非常に追い込まれることはあるんだけれども、でもどこかで「これはいつ(か)終わる。その先がある」とか「ここ以外の場所もある」ということが分かっている、と。

これはすごく分かる。
わたしも、今でも覚えている「子ども時代の絶体絶命感」がいくつかある。
今となっては他愛なくても、あの時感じた追いつめられ感は圧倒的だったと思う。だからこそ、今でも覚えているんだと思うし。

そして、「いじめ」は上で挙げたような例とも較べものにならないような絶体絶命感を生みだすだろう。子どもたちは「これはいつ(か)終わる。その先がある」「ここ以外の場所もある」ということを信じられるほどの年月を生きていないし、経験をしていない。

と考えると、いじめが無くならない以上は「先がある」「他の場所もある」ということを子どもたちに示してあげることが大切なのかな、と思う。(例えば、河田さんが社会人バンドについて語られているように。)

理不尽ないじめに対して「その場で踏ん張る」にしても「退却して他の場所を探す」にしても、「先」や「他の場所」の存在を信じられなくては絶体絶命感から抜け出ることは難しい。

ついでに言えば、私も大人になってから感じる幸せの一つとして、「自分の居場所を自分で選べるようになったこと」も大きいなぁと思う。

とくに周囲との人間関係で極度に辛い思いをしたことはないのだけれど、それでも、学校という均質的で閉じた空間・集団の中にある程度適応して生きていくために使ったエネルギーはわりと大きかったように思う。

学校って、もともとは過酷な大人社会から子どもたちを守る目的もあって設けられているはずだけれど、子どものタイプによっては学校のが危険になってしまっているのかも。

今のところ教育現場にも関わっていないし、自分の子どももいないから、この問題に関してすぐに自分が出来ることって思いつかないんだけれど、そんな風に思う。