【Vicom2010年 04月08日投稿を転載 】怒りのスイッチ。存在の不確かさ。仏教。コミュニケーション学。

「人の怒りを呼び起こすのは何だろう?」

とふと考えたりする。とくに、ちょっとしたことで自分がイラッとしてしまった後とか。そんなときに冷静になろうと自分を振り返ってみて思うのは、日常生活のなかの多くの怒り・イライラは、

「自らの存在の不確かさを思い出させられた時」

に起こるのかなぁ、と。

例えば、「挨拶されない」「道で通りすがりの人によけてもらえない」とかは「自分の存在がないものとして扱われる」→「存在の不確かさを思い出させられる」。電車の中のお化粧や携帯通話も、周囲の人たちが「存在がないものとして扱われ」→「存在の不確かさを思い出させられる」。
パートナーや親しい人との関係では、「約束を忘れる」とか「話を聞いていない」とかで、「自分の存在が軽く扱われる」→「存在の不確かさを思い出させる」。
大体ぜんぶおんなじ。

これを逆に翻って考えると、人間の魂、か心の奥底か分からないけれど、まあ根幹みたいなものは、どれだけ自分の生命・存在が奇跡のような微かなものの上に成り立っているのか、いつでも分かっているんだ、と。
そしてその一方では、やはり、自分の存在にそれだけ執着しているんだなぁ、と。

そして、私が少し興味をもっている仏教的には、その執着こそが苦しみのもとと見做して、そこから脱却する方法を示しているわけで。
たぶん、執着をどう見なすのかはだいぶ生来の性格にもよるんじゃないかという気がするけれど、でも、八正道とか、目指す方向に進む方法を具体的に提示しているあたりは、「現代の自己啓発と似てるなぁ」と思うし、(初期)仏教は宗教というより思想や学問じゃないか、と感じる。

現在の日本では「宗教」には距離を置いておくのが無難、という考え方が一般的だけれど、それはもったいないんじゃないかと思う。信仰としてではなく、学べることが本当はいっぱいありそうだ。

その一方で、私は欧米発のコミュニケーション学に興味があるし、両方を学んで、そのうちにはその2つを自分の中でうまく結びつけ、さらにはうまくアウトプット出来るようになれればいいなあと漠然と願う。
やっぱり、日本で生まれ育った私は、欧米のものをそのままの形で飲みこむのはなんだかさびしいから、日本や東洋的な視点と組み合わせることが出来たら素敵だと思う。

と、いつものように漠然と考えてみる。
そして、もし心が、自分の存在が奇跡の上に成り立っていることを理解しているなら、そのことがどちらかというと怒りよりも感謝につなげられるとよい、と思う。

まあ、何が見えてくるかわからないけれど、とりあえずどっちも勉強してみたい。