【Vicom2010年 12月10日を転載】保険としてのinclusive。

さきの日記で何気なく、
「誰か・何かをexcludeしていればしているほど、いつか自分がその誰か・何かの要素を持った時、自分自身をもexcludeせざるをえず・自己否定に向かわざるを得なくなるようにも思うし。」
と書いたけれど、書いてから自分でこの文章が気になりだした。

この考え方って、ちょっと“保険”みたい。

わたしの心・価値観の中では、「出来る限り人をexcludeしない」ということが大きな位置を占めているように思うけれど、これは一つには「人をexcludeする価値観」が長期的・将来的には自分自身をも排除し・傷つけるリスクを察知しているからなのだろう。

(例えば、私が老いを排除する価値観を抱いていたとしたら、自分が老いた時は無意識のうちに自分自身をexclude・否定せざるを得ず、非常に辛い思いをするだろう。
また例えば、私が何らかの病を持った人を排除する価値観を持っていたとしたら、もし自分がその病にかかったとしたら、その場合も間違いなく、自己否定に向かわざるを得ず・苦しむだろう。
逆に、老いにも病にも寛大な価値観をもともと持っていたとしたら、自分が老いたとしても・病になったとしても、(他人からの排除はともかく)少なくとも自己否定の苦しみは味あわなくて済む。)

そういう風に考えると、「出来るだけ人をexcludeしない」というスタンスで生きていくことはある意味、「自分がexcludeされかねない要素を抱えてしまったときに備え、予め保険の掛け金を払っている」という見方もできなくない。

もちろん、そんな保険のようなことしか考えていないわけではないけれど。
例えば、「あなたはこれから死ぬまで、人に排除されるような要素を抱えてしまうことはありません。あなたはこれからずっと強者です。」と神様か誰かにお墨付きをもらったとしても、今となっては、「あ、わたしは安全地帯にいるんだ。じゃあ、遠慮なく人を排除しよう」とは思わないし。(⇒でも、生まれた時から自分をずっと強者だと感じて生きてきたとしたら、自分がそうならなかったとも限らない。)

ただ、いずれにしても“人を排除しない(=苦しめない)”と“自分で自分を排除したくない(=苦しみたくない)”がわたしのなかで色濃く結びついていることは否定できないように思う。

でも、この“保険”に関しては、掛け金を熱心に払う人々と一切払わない人々など、普及率には大きな差があるみたい。もちろん、掛け金を払っている人にしても・払っていない人にしても、“保険”なんていう考え方はしていないと思うけれど。

でも、掛け金を一切払っていない人たちが、「他者を排除しない価値観・生き方をすること」が「将来の自分を守ることにもつながる」と上手く納得したとしたら、動機はともあれ、結果としてはよりinclusiveで・弾力のある社会に近づくかもしれない。