【Vicom2010年 10月18日投稿を転載】「あきらめる」

わたしは「諦める」という言葉が好き。と言えば、?と思われそう。

でも、自分の心のうちを覗いてみて、心の在り方の大きな部分を表わす言葉として辿りつき・すごくしっくりくるのがこの言葉だった。
ただもちろん、必ずしも現代一般的に使われるネガティブな意味での捉え方ではなくて、自分なりのプラスの意味をこの言葉の解釈に加えていた。
そしたらあるとき、「諦める」の語源は仏教にあり、その意味に「つまびらかにする」「明らかにする」という、私の捉え方と近いものが含まれることを知った。
あまりにしっくりくるので、もしかしたら過去のどこかの時点で「諦める」の仏教的語源がすでに私の頭の中に入っていたのかもしれないけれど。(というか、たぶんそう。)

いずれにしろ、仏教の考え方でも・わたしにとっても「諦める」は決してネガティブな言葉ではない。
漢語の「諦」はサンスクリット語satyaの訳語で、真理・道理を意味するのだという。
そこから、「物事の真理を明らかにする→自らの希望・目標等が達成されないことが明らかとなる→断念する」といった解釈の流れが生まれ、現代はその最後の「断念する」の部分だけが残ってしまったのだろう。
しかし、もともとの意味やわたしの印象では、「諦める」の力点はどちらかというと、「明らかにする」「つまびらかにする」というところにあり、それにさらに付け加えるとすれば「(現代語での)諦める」ではなくて「受け容れる」という意味合いだろうか。

物事をあるがままに見つめ(ようと試み)、それを事実として受け容れる。シンとした静かな心持ち。

それが、わたしにとっての「諦める」という言葉のイメージ。そしてその解釈に基づき、じぶんの中にいつの間にか根づいているキーワードの一つが「自分が自分であることを諦める」。これは強いて言えば、「自分が自分であることを受け容れる」に近いか。

と、そんなことを考える一方で、(自分も含め)現代人は「自分が自分であることを諦める」ということをとても苦手としているように思う。「諦めない」ことが美しいとされ、「諦める」ことは良くないことだと思いこんでしまう。
それゆえ、「諦める」ことには、必ず痛みや敗北感が伴うこととなる。
しかし、必ずしも「今そこにないもの」を求め続けることが正しく、「今そこにあるもの」を受け容れることが誤っていて・敗北であるとは限らないと思う。

ときには、「つまびらかにし、受け容れる」ことで心穏やかになり、今まで目に入っていなかったものが見えてくることもあるんじゃないか。
上手く言えないのだけれど、そんな風に思う。

もちろん、「諦めない(=give upしない)」ことを否定するつもりは全然なくて、多くの局面で「諦めない」ことは美しいし・価値がある。
でも同時に、「諦めない」ことに価値を置き過ぎるあまり、「つまびらかにし、受け容れる」ほうの価値が見過ごされがちな気もする。