【Vicom2010年 09月04日投稿を転載】エッセイを読んで、脈絡なく。

穂村弘さん(歌人・エッセイスト)のエッセイを読んでいたら、小さな頃に「右」と「左」の概念を理解するのに時間を要した、というようなことが書いてあった。「東」や「西」だったらまだ分かる。常に決まった方向が「東」や「西」だから。でも、「右」は、自分が動くと「右」も動く。一体「右」ってなんなんだ、と思った、というようなこと。
私は、自分が「右」「左」をどのような過程を経て理解したのか覚えていないけれど、似た経験を思い出した。

私の場合は、「天然」と「人工」をうまく理解できなかった。
「天然の塩」か何かをスーパーで売っていて、「天然ってなに?」と母に訊き、説明してもらった。
じゃあ、「天然じゃない塩は何なの?」と訊くと、「人工。人間が作ったもの」みたいな答えだった。
でも私は腑に落ちなくて、当時は上手く説明出来なかったけれど、要は、「人間が作った、と言っても無から作りだしたわけじゃないし、もともとは自然界にあるものから作り出されているのに、どこで『天然・自然』と『人工』が分かれるのか」がうまく理解できなかった。
もちろん、その後だんだんと、世間一般的なところの「天然・自然」と「人工」の境目は学習した。でも、今でもあの時にうまく理解できなかった違和感は記憶の中に強く残っている。

でも、穂村氏も書いていたけれど、こういうのは大人になると気にならなくなっていく。穂村氏も今はちゃんと「右」と「左」は分かるし、と。

それは便利なことだし、人が社会的に生きていくうえで必要なことと思う。
その一方、単に便宜上に定められただけのものを永久不変の真理であるかのようにいつの間にか考えてしまって、「右」「左」「天然」「人工」という言葉ではうまく拾えない部分を取りこぼしていることに気づかなくなってしまっているんじゃないか、という気もする。

例えば、「天然」「人工」という言葉を単独で取りだすときは、あくまで概念として存在する。
でも、「この●●は天然」というように言葉が具体性を帯びた時は、本当は「●●=天然」というわけではなく「●●は天然の性質を帯びている・天然寄りだ」というほうが近いように思う。
なんていうか、「天然」という言葉の範囲に入ればとりあえずはそう呼ぶけれど、必ずしも●●が天然という言葉の持つ意味のど真ん中にはいないだろう、というか。
でも、日常生活で用いる言葉ではそんなまだるっこしい言い方も考え方もしないから、世の中のあらゆる事物・事象などは、言葉によって切り分けられていく。ど真ん中にはないものでも、とりあえず・便宜上は、どこかに押し込められる。そうしないと、曖昧な領域が増えて、社会が上手く進んでいかないから。

でも、この「名づける」「分類する」ということによって「そのものの正体がわかった・明らかになった」ように思ってしまい、そのことが逆に、現実の事物・事象をありのまま・あるがままに見ることを妨げることにもつながっていると思う。卑近な例でいえば、「あの人は●●な人だ」と自分の中で決めつけてしまうことによって、今その瞬間自分の目の前にいるその人ではなくて「●●」という言葉でそのひとを限定的に捉えてしまったり。

と思うと、あらゆる事物・事象などについて考えるときは、できるだけ、「●●は××だ」のように厳然たる未来永劫変わらない真実であるかのように捉えるのではなくて、もっと緩やかで・様々な可能性を含むグレーゾーンを受け容れる余裕をもった捉え方をしたいと思う。
という考え方は、たぶんとても個人的で、必ずしも賛同を得られないと思うけれど、そう思う。

そして、この考え方と言うのはやっぱり、曖昧さや余韻や、言葉によって言いつくされないものに価値を置く、日本的な発想の流れにあるのだろうか、と思う。


と、ここまで考えてまた別のことを思い出した。
昨日の、林さんに受けたコーチングの中で私が気づいたこと。

私は、よく推奨される“測定可能な”目標の設定が苦手で、“(どちらかというと)測定困難な”目標設定に向かいがちだ。
もちろん、内容によっては明らかに測定可能な目標設定が可能で・適している場合も多々あるけれど、近頃はそれが行きすぎて、すべての領域で測定可能なほうが偉いというか、とにかく測定可能>測定不可能、という価値観が固定されすぎているようにも思う。

言葉によって適切に表現されづらい部分にも心を配りたいと思っている私としては、言葉だけではなく“測定”というものによっても、物事がさらに限定的にしか捉えられなくなっていくような気がして、測定万能主義のさらなる台頭に、何となく怯えてしまう。