日々雑感

元牛飼いの会社員です。時折、考えたことを書いています。

【Vicom2010年 07月24日投稿を転載】楽しかったこと・興味深かったこと。

vitalの集まりはいつも楽しくて興味深い。勉強になる。
昨日も、2年ぶりくらいでネットワーキングパーティに参加、とってもいい時間を過ごさせていただいた。親しい仲間との会話、そして、初めて会う人・今まであまり話をする機会のなかった人との会話。
今回とくに新鮮だったのは、大学院まで数学をご専攻されたSさんのお話。

私のたまに書いている日記に、Sさんが興味を示して下さって、それから発展して色々とSさんの数学や学問に対するお考えをお聞きし・お話した。
その中で、不思議だったのは、

●私は完全な文系で、数学どころか算数の時代から数には苦手意識を持っていて、一方のSさんは、数学の理論を研究なさり、修士まで進まれた方。
●表面的な話から入ると、物事を考えるアプローチ?や興味範囲はおそらく私とは正反対、対極なんじゃないかと感じる。
●それなのに、私が日記で書いた事柄のなかに、Sさんが興味を感じて下さる部分がある、

というところ。「なんででしょうね?」というところから、話がつながり。
いろいろ話したんだけど、その中でSさんがおっしゃって印象深かったことをいくつか。

①学問の入り口と出口の話。

「学問は入り口と出口で異なった学問に変わる。例えば、生物は突き詰めると化学になり、化学は物理になる、物理は数学になり、数学は哲学になる。そして、言ってみれば全ての学問は最終的には哲学か芸術になる。」

生物→化学、化学→物理になる所以は、私は正確に説明できないので割愛。けれどつまり、高校時代に好きだった科目を大学以降の専攻に選んでも、必ずしも成功しない、ということ。

ううーん。面白いなあ。

何ていうか、大学受験を通ってきた多くの日本人にとって、学問分野を分けるときはまず「文系か・理系か」や学校での科目による分類が最初に来てしまうと思う。でも、実はそんなに単純なものでもなくて、それぞれの学問を先に進んでいくと、最終的には文系とか理系とかそんなものは突き抜けてしまう。

そして、数学科(→哲学?)に進まれたSさんは大学以降「これこそが自分のやりたかったことだ!」と思われたと言う。
高校の教科書レベルで苦しんでいた私には覗くことの出来なかった世界だなぁ、と思う。でも、Sさんが仰るには、私のような人は本当はもしかしたら(哲学的な部分に近づいた?)数学には向いているんじゃないか?と。

わおっ。これはテンションの上がるお言葉。

試験の度に数学に苦しんできて、「私は数字が苦手。」と心の底から思いこんできた人間にとっては、(大げさに言ってしまえば)福音のような。
でも、個人的なことは抜きにしても、ほんとうは出口に近づいていけば自分の興味に近い学問なのかもしれないのに、入り口でシャットアウトされてしまう、というのは意外とよくあるんじゃないかなぁと思う。

もちろん、基本的なことが出来ていなければ先に進めないのは当然、という面もあるけれど、「入口が数学だから出口まで全部数学」「入口が歴史だから出口まで全部歴史」というほど単純でもないのだなぁ、と面白く思った。

そして、「全ての学問は最終的には哲学か芸術になる」というところも、個人的に考えてたことと繋がる部分があって、印象に残った。

②英語学習へのアプローチ方法の違い

理数系科目への苦手意識が強い私と逆に、Sさんは国語や歴史が苦手だった、と。その理由は、(数学等と比べて考えると)必ずしも論理的ではない部分があるから、と。
しかし、(同じく文系科目である)英語は苦手ではなかったとのこと。
その理由は、国語(=日本語)に比べ英語のほうが論理性が強いから、と。私は今まで、英語力と国語力は非常に密接に関係がある、と考えていたので、逆に論理のほうから英語にアプローチする、という感覚が新鮮だった。

お聞きしてみると、Sさんの英語学習へのアプローチはわたしと全然違う。
私は帰国子女でも何でもないけれど、音読等、どちらかというと感覚で語学を身につけてきた。英文法も一応は学んだけれど、それを毎回考えながら文章を作ることはない。
一方、Sさんは文法という規則・論理的な部分を頼りに、英語を学んだと。だから、文章を作る時は文法知識をもとに、文を組み立てていく感じ、と。

となると、例えば、Sさんと私が結果的に同一な文章を作り上げたとしても、そこに到達する過程は、全く異なるものなんだろうなぁ。

うーん。面白い。

私はいちおう教育学部英語学科出身なので、英語教育にも少し興味がある。

今までは「音読は筋トレ」派で、単純ではあるけれど、とにかく音読だけでも語学力はある程度つくし・それは万人にとって効率的な方法だと思っていた。

もちろん、必ずしも音読と論理組立(?)が対立するわけでも、二者択一なわけでもないけれど、最終的に「英語を不自由なく使えるようになる」という目標は同じでも、そこに至るアプローチは人によって向き不向きがあるのだなぁと、心でストンと納得した。

となると、学校での英語教育においても、生徒のタイプによって学習アプローチを選択できるようになったら、もっと効果的に・全ての生徒に英語力がつくようにならないかなぁと思ったり。

③”不変”の話。※

そもそもSさんは”不変”に興味を感じ、私の日記でも”不変”について書いていたのでそこに関心を持たれた、と。

確かに、数学の定理などは”変わらないもの”だ。数学がご専門のSさんが”不変”に興味をもたれるのはしっくりくる。

一方、私は”移ろうもの””移ろうこと”への興味関心、共感があるので、「”移ろうもの”はどうなんですか?」とお聞きすると、Sさんは「”常に移ろい続ける”という点において”不変である”」という視点に言及されました。

おお。

哲学の香り。

(※ごめんなさい、③は私の勘違い。Sさんは「真理と普遍」に興味がおありと仰ってたのを私が「不変」と脳内変換していました。。)



と、そんなわけで、私にとってはひじょうにワクワクするようなお話がお聞き出来た時間となりました。
うーん。こういう興味深いお話が出来るきっかけとなるから、やっぱり日記を書くのは無駄じゃないなぁ、と思う。

そして、昨日のパーティで集まった400人の方々はそれぞれに、そういういい時間を体験されたんだろうなあ、と思う。こんなにたくさんの興味深い方々にお会いできるVital Japanは本当に素晴らしい、心から感謝したいと今日もまた噛みしめるように思います。

私もまたそろそろ、小さな恩返し、じゃなくて恩送り(pay it forward)を考えたいです。。