【Vicom2010年 04月22日投稿を転載】「身体的多数派」「身体的少数派」

「障害」や「障害者」ってなんだろうとときどき思う。
K田さんの日記を読んでまた考えた。

目が見えない。
耳が聞こえない。
足が動かない。

ひとまず「身体障害」について考える。

例えば、目が見えなくて町の中に出るのはどれほど恐ろしいことだろうと思う。目が見える人の10倍くらいは神経を張り詰めているに違いない。

世の中は大多数の人にとって使い心地・居心地が良いように作られる。

目の見えない人が多数派だったら、目の見えない人にとって住みやすい世の中が作られていただろうし、目の見える人は「人に見えないものが見える人」として気味悪がられていたかもしれない。

と考えると、「健常者」「障害者」の区別は絶対的なものではないし、単に相対的な数の問題なのだろう。とすると、「健常者」「障害者」という呼び名も、視点が一方的で、的を射ていないように感じる。それにきっと、「障害者」とされる人たちの心を傷つける。自分の属する集団が「障る」と「害」の字で表わされるのは、あんまり気持ちのいいことではない気がする。私だったら、きっと毎回少しずつ傷つくように思う。

とすると、本当は何て言うのが適切なんだろう。考えてみる。

うーん。ちょっと変な気もするけれど「身体(的)多数派」と「身体(的)少数派」か。これなら少なくとも、「優れている・劣っている」「正しい・間違っている」「上・下」という概念は含まれない。

表面的なポリティカル・コレクトネスの追求は、滑稽に見えることもあるし、誰もハッピーにしない。けれど、多数派の主観から生まれた言葉がそのままになっていていいわけでもないと思う。

ただ、言葉と感情は鶏と卵みたいなものだし、「健常者」「障害者」を、例えば「身体的多数派」「身体的少数派」に言い替えたとしても、その新しい言葉が、そのうち差別的意味合いを含むようになるかもしれない。

と言う点だけ考えたら、悲観的になってしまいそうだ。

でも、差別的意味合いを込め出すのも人間なら、差別から抜け出そうと新しい言葉を作り出すのも人間、という視点から考えれば希望が持てる。

自分の中にだって、美しい性質も、そうでない性質もあることを分かっているし、他の人も大抵そうだろう。だからこそ、自分も含め、出来るだけ多くの人の美しい面が出易くなるような世の中にしたいなぁ、と願う。

そのほうが、自分が日々生きていくのに幸せだから。

そのためには自分に何が出来るだろうと思う。その、自分にできることをするために・その幅を徐々に広げていくために、わたしは日々生きているようにも思う。コミュニケーション学などの興味範囲も、その一部だ。

今はまず、身近な回りの人たちへ。
将来はもうちょっと幅を広げられるかもしれない。
そうじゃないかもしれない。

けれど少なくとも、今の私には、そういう方向性で生きていくことそのものが大切なように思える。