日々雑感

元牛飼いの会社員です。時折、考えたことを書いています。

【FB2017年5月29日投稿を転載】「ジャーナリスト堀潤が見たパレスチナ ガザ地区」に参加

先日は、日本国際ボランティアセンター(JVC)職員のMai Namikiさんのお話を伺いに。主なトピックは、ガザ地区の現状と、JVCが行なっているパレスチナの子どもたちの栄養失調予防事業について。単に支援物資を配って終わり、ではなく、現地女性に栄養の知識を教えることで、持続的効果が期待できる活動となっていることに感心。2014年にお聞きした藤原 亮司さんのご講演内容も思い出しつつ、改めてパレスチナ問題を考え直す機会となりました。

<ここから雑感>

しかし改めて、素朴な疑問として、ユダヤイスラエル人は一体どうやって自らの心のなかで自己を正当化するのだろうと不思議に感じる。政治的な経緯があり、彼らとしても大筋においては合法的に彼の地へ移民してきたことは理解しているけれども。しかし、数千年前の神との約束を根拠に、現実には他民族が平和に暮らす地に数百万人がやってきて、遂にはその地の殆どを手に入れた、という客観的事実は認めざるを得ないと思う。
そういった客観的事実が全て帳消しになるほど、シオニズムという思想(と、それに基づく国民教育)が強力なのか。「自民族が安心して暮らせる場所がない」という、ユダヤ人が長年の間に渡って置かれた状況はとても気の毒に思う。ヨーロッパ各地で排斥されてきた上、遂にはヒトラーによって最悪の事態が引き起こされた。しかし、だからこそ、自らに何の科も無いにも関わらず、他者によって平穏な暮らしを突然奪われる辛さは身に沁みて分かるように思うのだけれど。

。。。というのは、他民族に奪われたことのない島国で何千年も安穏と暮らす日本人の発想なのだろうか。確かに、ヨーロッパその他、地続きエリアの歴史を見ると常に「とった、とられた」「支配した、支配された」「滅ぼした、滅ぼされた」と絶え間なく争いが続いてきている印象。そこで生まれ育てば、無意識のうちに「国や文化というものは全力で守っていないといつ攻めこまれて無くなるかわからない」「やるか、やられるか」という危機感が強く育つことだろう。さらに、ヨーロッパ各国に離散していたユダヤ人は長年差別を受ける側で、自分たちの国を持つことも叶わなかった。
そんな中、ようやく巡ってきた千載一遇のチャンスをモノにして、イスラエルを建国。

と、考えると、彼らが自国を守ることにかける(行き過ぎた)熱意もほんの少しは理解できるか。

さらに、ホロコースト直後、歴史的にユダヤ人を爪弾きにしてきた自覚のあるヨーロッパ各国も、ユダヤ人難民問題がユダヤ人にとってハッピーな形で、(且つ、ヨーロッパの外で)解決されることは歓迎すべきことだったのだろう。そして、その代償を払わされた・払わされ続けているのは、そもそもユダヤ人問題とは何の関係もないパレスチナ人。

この状況にはやはり怒りと悲しみを覚える。そして、遠く極東の国からでも、自分にできる正しいことをするために、学ぶこと・知ることを諦めないようにしなくてはと思う。

〈今回参加したイベント〉
http://www.ngo-jvc.net/jp/event/event2017/05/20170525-palestine.html

【FB2017年2月19日投稿を転載】「堀潤の伝える人になろう講座『シリアを知る夜』」に参加

先日、「堀潤の伝える人になろう講座『シリアを知る夜』」に参加。非常に興味深い内容だったので記録も兼ねて。
スピーカーは、そもそもはアジア文化を(欧米経由ではなく直接)アラブ世界に伝えるため、1997年に来日したシリア人ジャーナリストのエルカシュ ナジーブ氏。思い込みを極力排し、苦しみながらも物事の一つ一つを虚心坦懐に見つめ、“明らめ”ようとする姿勢に共感。
今までいまいち理解しづらく、故に他人事と感じがちだったシリア問題を初めて自分事、或いは隣人事として受け止めました。
特に印象に残った部分等を以下に記します。メモを取ってなかったのが悔やまれます。
(注:Najib氏が語られた視点を「私が理解した範囲で」記したので解釈誤り等あるかもしれません。すみません。)

◆内戦勃発前のシリア行ったことのある日本人は、「あんなに平和だったのになぜ。」「ホテルでもないのに家に泊めて歓待してくれ、(例えばエジプトやトルコのような商売っ気の強い国と比べ)シリアは素晴らしかったのに。どうしたらあの頃のシリアに戻れるのか。」と言う。
しかし、シリア人であるNajib氏に言わせれば、「独裁政権により、1960年代以降のシリアでは観光業含め様々な産業が自由に出来なかった。結果、人々は商売としてではなく旅行者を泊めたりもした。それは旅行者にとっては素晴らしい体験かもしれないが、シリア人にとっては既に良い状況では無かった。商業的であっても、貧しいより国が発展したほうが良い。必ずしも『独裁=悪』では無く、経済的発展を成し遂げる“良い独裁”も存在し得るが、シリアの場合、経済的発展も政治的自由もどちらも無かった。」
◆「この写真の6人のうち、一人だけ宗教が異なります。どの人ですか?」と。写真に写るのは、ウサマ・ビン・ラディンから始まり、他、アラブ世界の指導者達、そして、ブッシュ米元大統領。




正解はもちろんブッシュ、、、では無く、ウサマ・ビン・ラディンイスラム教徒)。
それ以外の5人はキリスト教徒。
考えてみれば、汎アラブ主義の指導者達がキリスト教徒なのは自然なこと、と。
アラブ諸国ではキリスト教徒は少数派、よって、イスラム教徒が多数派を占める各国内で存在感を示しづらく、“国を超えたアラブ世界”の枠組みを好み、そこに後からイスラム教徒が乗っかった、と。
ここからも分かるように、“アラブ”と“イスラム”は別物で、時に対立的関係性にある。
◆現在のシリア情勢は非常に複雑。元々は独裁政権があり、それに対する民主化運動が起こった。民主化を好まない政権側は、同じく民主化を好まないイスラム原理主義者達(アル・ヌスラ戦線?)の力を利用するため、数百人の原理主義者を敢えて刑務所から釈放するなどした。民主化運動側からも、非暴力グループと武装グループが複数生まれた。この混乱に乗じ、国を跨ぐ過激派組織ISがシリアで勢力を広げた。更に、アサド政権側にはロシアがどっぷり援助、民主化運動側にはアメリカが時折・気まぐれに援助。
このように様々な立場・思惑が入り混じっている状態。シリア国内で人命救助を行うNGO(White Helmets)さえも資金面で紐付きであり、活動自体は尊いが、目的はプロパガンダ
一方、一般のシリア人も、今となっては自らの思想と関係なく、食べるため武装勢力に入らざるを得ないことも。
ちなみに、アサド政権はイスラムアラウィー派だが、宗派はシリア問題の争点ではない。
◆Najib氏としてはシリアは国際社会に見捨てられていると感じている。イラクで懲りた米国はシリアに積極的に介入しないが、介入・非介入の判断を誤った。イラクではなく、シリアに介入すべきだった。シリアでは政権側による虐殺等、大規模で深刻な人権侵害が起こっている。しかし、中東への理解が薄いトランプ大統領誕生で、適切な介入への望みが更に薄くなった。
日本も、昨年末のプーチン大統領来日の際等、ロシアのシリア介入についてもっときちんと懸念表明・非難することは出来るはず。言っても変わらないかもしれないが、言わないよりずっといい。

極めて理性的なNajib氏でしたが、シリア国内での残虐行為について触れる際など数回、湧き上がる感情に言葉を詰まらせる場面も。我が身に置き換えて考えれば、生まれ育った日本に同じような事態が起こったとしたら、どれほど辛いことだろう、と胸が痛みます。
一体自分にできることは何か、と自問しつつも、まず「無関心は罪」であることは確か。そしてまた、この講座のテーマである「伝える人になる」ことも自分にできることの一つだろうと思います。

このテーマを取り上げてくださり、また、プロフェッショナルな素晴らしいファシリテーションをしてくださった堀氏にも深く感謝します。

https://www.facebook.com/events/763302933818345/?ti=icl

【FB2015年10月19日投稿を転載】映画『真夜中のゆりかご』感想

ギンレイホール前を通りかかったら、ちょうどスザンネ・ビア監督作品が始まるところだったので、しゅるっと館内に吸い込まれました。

ストーリーの出だしはこんな感じ。

『主人公は、誠実で正義感の強い刑事、アンドレアス。湖畔の自宅に帰れば、美しい妻アナと赤ん坊。赤ん坊が夜泣きをすれば、妻と交代であやす日々。
一方、職務でアンドレアスが踏み込んだアパートには、薬物依存のカップル、そして彼らから育児放棄され、糞尿にまみれて放置される赤ん坊が。
同じように『父・母・赤ん坊』であっても、そこで展開されるのは全く異なる光景。
しかしそんなある日の夜中、アンドレアスの赤ん坊アレクサンダーが突然に亡くなる。「アレクサンダーは死んでない!私から取り上げるなら自殺する!!」と興奮するアナ。
その時アンドレアスの頭に浮かんだのは、育児放棄されていた赤ん坊。
亡くなったアレクサンダーを包み、カップルのアパートにこっそりと忍び込むアンドレアス。。。』

続きを書くのは控えますが、先に進むに従って、善悪の判断や境界線の揺らぐ感じ、さすが。
感情も揺さぶられるし、考えさせられます。
やっぱりこの監督の作品、他にももう少し観てみたい。

【FB2015年10月11日投稿を転載】マッターホルン博物館

スイス旅行中、ツェルマットが悪天候だった時に暇つぶしに寄ったマッターホルン博物館。
予想外に興味深かったので、遅ればせながら、備忘のためにも記しておきます。

日本でもその名をよく知られるマッターホルン
霊峰であったことも関係し、1865年まで登頂されることがありませんでした。そして、その初登頂が波乱含み。
それが、このマッターホルン博物館のメインテーマです。

・初登頂を果たしたのは、エドワード・ウィンパー他3名のイギリス人登山家達と、スイス人ガイド3名(タウクヴァルター父子、他1名)の計7名。
・しかし、登頂を果たした後、ウィンパーとタウクヴァルター父子以外の4名は滑落死。滑落した4名との間でザイルが切れたがゆえ、3名は助かります。そして、「タウクヴァルター父は、自分たちが助かるために故意にザイルを切ったのではないか?」という疑惑も出て、裁判沙汰に。
・最終的に刑事責任は否定されたものの、疑惑故に、タウクヴァルター父子の人生は暗いものに。一方、(自己PRの上手い)英国人登山家ウィンパーは、自著も出版し、一躍スターに。
(→これには、英語で大々的に情報発信できる登山家ウィンパー⇔スイスドイツ語の一方言しか話せないしがない登山ガイド タウクヴァルター父子、という発信力の差も。)
(→また、当時のツェルマット村は英国人登山家の落とすお金で潤っていたので、真実であろうとも、英国人登山家を敵に回す発言をしづらかったとも。)

そんなこんなで、ウィンパー側の主張が正史のように扱われることとなり、それに対してタウクヴァルター父子、ツェルマット村側は相当悔しい思いがある模様。

そんな思いがたっぷり詰まった、博物館展示、非常に興味深かったです。。。オーディオガイドも、まず最初に渡されるのはタウクヴァルター側の視点のもの、希望すれば、後からウィンパーが語り手となったバージョンも聴かせてもらえる、という凝りよう。
今後ツェルマット観光に行かれる方にはぜひオススメしたい博物館です♪

http://www.zermatt.ch/en/museum

【FB2015年8月2日投稿を転載】セミナー「少子化は誰のせい?まだまにあう?」感想

一昨日は、Vital Healthcare主催のディスカッション勉強会「少子化は誰のせい?まだ間に合う?」にて、産婦人科医 宋美玄さんのお話を伺い、少子化問題について改めて考えるきっかけとなりました。以下、考えたことのまとめ。

少子化の原因は多面的。対策も様々な角度から行う必要あり。

■まず、日本では出産に至る経路がほぼ「婚姻→出産」の1ルートなので、いったんそれに則して考える。
■「婚姻関係にあるが、出産は好まない」という既婚カップルをあまり見かけないことから考え、どちらかというと、出産よりも婚姻が関門となっている印象。
■未婚・非婚の原因を大雑把に、以下2つに分ける。
(1)外部要因(収入不足、労働時間過多、etc.)
(2)内部要因(モチベーション不足(婚姻・出産へのネガティブイメージ、婚姻以外の方面への興味過多)、(婚姻に繋げるための)各種スキル不足、etc.)
多くの人の場合、(1)と(2)が複合的要因となって、婚姻に至っていないように思われる。
■外部要因に関しては、政策その他である程度改善が可能か。
■内部要因に関しては、現代社会総体としての在り方が個人の在り方に反映されたものと思われるため、婚姻に関する部分のみ切り取って、短期的・劇的な変化を呼び起こすことは困難か。

■ここでのゴールが少子化問題解決(=出産数増加)であり、婚姻数増加ではないことを考えると、「婚姻を経ない出産」もより積極的に認める必要があるのではないか。例えば、「出産(&男親による認知)」や、「(婚姻とは異なる)パートナーシップ→出産」等。
■「出産(&男親による認知)」の選択を積極的に認めるなら当然、非嫡出子への差別撤廃(←相続は既に同等。)+αが必要か。
■「(婚姻とは異なる)パートナーシップ」に関しては、婚姻に較べて人々にとっての心理的・制度的ハードルが低くなる、より自由度の高いものとする。
(→そもそも個人の在り方の自由が拡がった現在において、共に生きるパートナーとして法律上認められるのが「性的関係を前提とした異性1名との生涯に渡る(ことを想定した)契約関係」のみというのは、限定的過ぎるのではないか。「パートナーが同性」「性的関係にはないが、相互に信頼しているパートナーがある」「生涯に渡る契約(婚姻)は重すぎる」等、人々には様々な希望があるように思う。もちろんそれをどこまで認めるかは考えなくてはいけないと思うけれど。)

という感じ。
急進的過ぎるかな。でも、社会・人々自体がすでに変化しているわけだから、制度もそれに合わせざるを得ないんじゃないかと思う。
そうしないと結局、現行制度に乗っかれない・乗っかりたくない人たちは非婚、結果、子供生まない、になっちゃうわけだから。
また、現在はまだパートナーシップ制度の設置を望む声はそんなに大きく無いだろうけれど、そこは単に「存在しないものを上手く想像できない」ということであって、「不要」とは異なるのでは無いか。つまり、T型フォードが出る前の人々が「馬じゃ何か問題あるの?」と反応したように。

「(現行の)家制度を守ることと、日本の将来どっちが大切なんですか?」てことかな。
もちろん、「(現行の)家制度を壊してまで、少子化問題を解決する必要性はない」「そもそも少子化は大きな問題ではない」という考え方もあると思うから、それはそれで別の議論になるんだと思うけれど。

ともあれ、わたし、そんなにちゃんと少子化問題について考えたことなかったから、勉強になる良い時間を過ごせました。

宋先生、中澤先生、同じテーブルでディスカッションさせていただいた皆さま、どうもありがとうございました♪

https://www.facebook.com/events/857775867649363/

【FB2015年6月20日投稿を転載】映画『Happy』上映会感想

先週日曜は、お寺で映画+座禅。

映画は、数年前に見たことのあるドキュメンタリー映画「Happy」。
世界各地でHappyに暮らしている人々を16例取材するとともに、その合間合間に、脳科学者等のHappinessに関する視点・見解が挟まる。前回見た時も深い印象を受けたけれど、数年経って記憶が薄れていたので、今回もまた。

インドでリキシャを引いて暮らしを立てる一家のお父さん。家は、あばら家。「風通しが良くて快適なんだ。そして、仕事を終えて家に帰ってくると、いつも息子が迎えてくれる。」と笑顔いっぱい。
美人で活動的な母親だった米国人女性。交通事故により、元とはかなり異なる顔立ちとなり、ご主人にも去られ。しかしその後、人を癒すセラピストとなり、また、新たなパートナーとも出会い「今が一番幸せ」と。
他、14例。

映画を見ているうちに、「自分にとっての幸せとはなんだろう?」と考えないわけにはいかない。
座禅をしながらも、無にはなれず、幸せについて考える。
現在の結論は、これ。

「今この瞬間、心身ともに(概ね)健康にこの世に存在し、かつ、私のことを大切に思ってくれている人たち・私が大切だと思える人たちとのつながりがあること。」

これを言うと笑われることもあるけれど、年々、自然の景色に敏感になってきた気がする。
山に行けば緑が目に沁みるように感じるし、空とか、水の流れとか、子どもの声とか、そういうものが胸に迫ってくるときがある。子どものときはそういうことって、なかった。
それは恐らく、昔は“自分がこの世に存在していること”が自分にとってあまりに自明、所与のことだったからだろう。
でも、年月を経るに従って、自分は、様々な偶然や僥倖や、諸々の末にこの世に一時的に存在しているに過ぎない、すごく不確かな存在だと感じ・分かり始めた。
いちおう今のところは、五体満足・健康な34歳のはずだけど、もしかしたら明日、何かの拍子に命を落とすことだってあるかもしれないし、もしかしたら自分の知らないうちに病にかかっていることだってあるかもしれない。
その、自分自身の存在の不確かさゆえに、なんていうか、自然の中などで目にする、圧倒的な生命に感じ入ってしまうのだろう。

と、こういうことを言うと、私が老婆か何かと思われるのだろうけれど、でも、自分としては、こういう視点を34歳の健康体(たぶん)の時点で少しでも手に入れられたことを、幸運に感じる。しかも、こういうことを話しても、ある程度共感しあえる友人達がいることも。

もちろん、ごく普通に都市生活を送っている私としては、こういうことを四六時中考えているわけでもないけれど^^
でも、この視点は時折思い起こして、忘れ去らずにおきたい。

そして折しも、今また一つ、人生における決断が必要な局面にあるので、そのタイミングで、「わたしにとって大切なことは何か。」と立ち返ることが出来て、よかった。声をかけてくれ・一緒に行ってくれた友人に感謝。

【FB2015年4月4日投稿を転載】古賀義章氏講演会『向こう側から見たオウム』感想

先日参加させていただいた、Courrier Japon創刊編集長 古賀義章氏による書籍の出版記念講演の所感。テーマはオウム。
当日は開始時間10分前に講演の存在を知り、六義園の枝垂桜をいったん諦めて、会場へ。

ご講演内容は主に、古賀氏が取材を通して入手された膨大な数の写真資料や、元信者への長時間インタビュー等に基づくもの。
扱われているテーマの重さ・長期取材を行われたことから察せられる氏の想いの強さに反し、語り口は終始軽妙。そこから逆に、「一体何がこの人を長期にわたるオウム取材に駆り立てたのだろう」と不思議な思いも抱き。それについては、恐らくはご著書の中で明かされているのかもしれず。

私自身は、オウム真理教それ自体というよりも、オウム真理教(的な存在)に心を惹かれる・惹かれた・惹かれ得る・惹かれ得た、自分含め現代日本人の心象風景に興味を感じているため、今回提示された資料を興味深く拝見・拝聴。

他、個人的に講演会で印象に残った光景。

古賀氏が、(資料の一部として)麻原の説法テープを流す際などに、「別に麻原ファンじゃないんですけどね」等と冗談めかし、それに応えて私たち聴衆が「あはは。」と笑う、ということ数度。
これは、「我々は確かに、こっち側(=正常な・マトモな世界)に居る。あっち側(=オウムやカルトの世界)とは関係ないよね。」ということを、毎回、話者と聴衆で確認・安心する儀式みたいなものだなぁと。

こういうテーマについて不特定多数に語られる場合、(おそらく社会コンテクスト的に?)どうしてもこういう”儀式”を行う必要が生じてくる、ということはやはり、”こっち側”もしくは”こっち側に属する私たち”には、”あっち側”への恐怖があるのだなぁ、と改めて感じ。

帰りの電車の中ではその辺りも含め、友人と感想をシェアし、帰路に。
価値ある晩でした。感謝。